ヴェズルフェルニルの樹の下で 本編5話

  想像してほしい。
 手順は簡単。だから、想像してみてほしい。
 いま、あなたの目の前には四冊の本がある。
 それらは宙に浮かんでいるのかもしれないし、古めかしい飴色をした本棚から飛び出しているのかもしれない。あるいは整然と、ほこりの舞う部屋の中、机の上に並べられているのかもしれない。どういった在り方でも構わない。あなたの前に、四冊の本がある。大切なことはそれだけだ。
 あなたは四冊の本を順番にみやる。
 右からだって左からだって構わない。上から見ても構わないし、できるというなら下からみてもよいだろう。大切なことはそんなことではない。
 あなたは四冊の本を見る。本の表紙には、それぞれ異なる鳥が描かれていた。
 一つは真っ黒な、ワタリガラス。
 一つはお腹が黄色く、鮮やかなキセキレイ。
 一つは真っ白なフクロウ。
 最後の一つはカナリアが描かれている。
 ここには、彼らの少し昔の話が記されている。あなたは読んでもいいし、読まなくたって構わない。どの順番で読んでも良いし、途中で先に進んでも構わない。その先には世界樹の鷲が待つ物語がある。
 大切なことは選択だ。
 あなたが本を目にしたこと。
 あなたが順番を選んだこと。先に進むと選択したこと。あるいは選択しなかったということ。
 大切なことはそれだけ。
 選んだ先でなにを見るのか。なにを得るのか。ここで引き返し、ページを閉じるのか。また開くことはあるのか。思い出すことはあるか。
 知るということは。関わりを持つということは。一種の呪縛であり、呪縛とは感染するものだ。たとえ細い細い繋がりであったとしても、彼らはあなたの脳へと繋がり、あなたの感覚を通して物語を紡いでいく。
 物語は世界だ。本は世界を閉じ込めているのだ。あなたは、物語を通して彼らの世界を見る。
 さて。どの本をあなたは手に取るか。
 それとも、先へ進むのか。



 ・ワタリガラスの本

 その少年には、複数の名がある。
 最初の名はもう、本人も記憶が朧気だ。○○だといわれればそうだったかもと頷く程度には記憶が薄く、思い入れもない。大切にしたほうがよいものだったかもしれない。自分のことを大切だと感じてくれていた頃の、両親からの贈り物なのだから、もっと大切に抱えたほうがよかったもの……だったのかもしれない。
『今日から君の名前は、このコードだ』
 組織に拾われて、次に与えられた名は数字とアルファベットの羅列。およそ名前と名乗るには無骨が過ぎたものであった。
 最初に彼についてくれた先輩は、続けてこう言った。
『コードだけじゃ話し辛いだろうから、なにか通り名を考えるといい。組織の中や街に出ているときはその名を使うんだ。コードの末尾は、誕生日を尋ねられたときに使いなさい』
 受け取ったコードの末尾は1125。それを見て、彼は薄く笑みを浮かべる。
 人というのは、名と誕生日で己が誰かを証明している。生まれた時と贈られた名というのは、ただそれだけで個人に付いて回る情報であり、最も手軽な自他境界だ。子にとって幸いなものとなるのか、親にとって幸いなものとなるのか。少なくとも組織から贈られたものに不満はない。名も、生き方も。それからの彼にとっては、幸いなものであり続けた。
 新しい名を与えられた彼に過去のことを尋ねても、たいていの場合は「忘れた」と素っ気なく返されるだけだろう。乾いた葉が風にただからりと吹かれているときのように、右から押しても、左から押しても手応えなく返されるだけ。
 実のところ、彼自身、もう詳細には覚えていないのだ。
 母がいた時のあたたかい記憶も、父だけが残った時の惨憺たる記憶も。意識的に押し込め、反復しないようにと努めた結果、さほど遠い過去でもあるまいに、彼にはずいぶんと遠い出来事のように感じていた。
 手近に思い出せるのは、遠い昔のクリスマス。
 てっぺんでキラキラ光る星にみとれ、様々な色合いに変化するイルミネーションの明かりを目に映しながらも視線はずうっと星を見上げていた。
『ほんとうに星が好きなのね』
 そう笑う母と、クリスマスはもう終わったというのにそれを聞きつけた父が星の図鑑を買ってきて「将来は宇宙飛行士を目指すんだもんな」と根拠なく笑っていたことを覚えている。
 その次に思い出せるのは、物置に仕舞い込まれたクリスマスツリー。ほこりと、乱雑に散らばる褪せた飾りの数々と。自らの手で砕いた星のかけら。
 母が家から出ていって、どのぐらいの出来事だったかは覚えていない。父が泣いて、怒鳴って、無気力になって、家の中にどんどんとゴミが溜まって、汚れが溜まって、嫌な臭いになっていって。
 学校に行くと、みなが遠巻きに立っていて。ひそひそとした声を聞く度に肌に無数の足を生やした虫が這いずり回るような感覚を覚えた。枝のように痩せた体に生温い熱が乗るようになって、そこではじめて、無数の虫なんていなかったのだと気がついた。
 いい子でいれば母は帰ってきて、この嫌な家も嫌なことも全てが解決するのだと、そんな魔法のような奇跡を願っていた彼の目の前で魔法が否定されて。彼はいい子でいることをやめて、わるい子になった。
 そのあたりの錆びついて掠れた嫌な記憶はぷつぷつと途切れていて、明確な日にちや時系列通りに並ばない。
「嫌なことは、思い出さなくていいんだよ」
 遠い昔、シャルロットは彼に言った。
「こわかったり、痛かったりすることってあぶないでしょ」
 そりゃあそうだろうと、彼はシャルロットに頷く。出会った頃から白衣を着て、大人に交じって診察や治療を行っていたシャルロットは、彼の目に格好良く映っていた。
「あぶないってことはさ、忘れちゃいけないって体は思うんだよね。だから忘れないよう、勝手に何度も思い出すの。こっちは辛いのに、何度だって思い出させてくるんだよ。勝手なもんだよね」
 花粉症みたいなものだよ、とシャルロットは言って、ちーんと鼻を噛んだ。どうやら今年は辛いらしい。
「……んんっ。えっと、だからね。忘れていられるならそうしてたほうがいいの。危なくないよ、思い出さなくていいよって、自分を安心させてあげるんだ」
 シャルロットの言葉を聞いて、目線を斜め上にあげてしばし考える。
「それってさ、嫌なのにそれにハマってくヤツがいるのと同じ?」
 常々疑問に思っていたことを投げかけてみる。
 組織にやってきた子の中には、彼と同じような経験をした子も多くいた。そんな彼らの中には、時折、特定の仕事に傾倒する子がいた。いくら思春期とはいえ、何がきっかけでそうも自分と違う道を歩むのかと、不思議に思っていたのだ。
「うーん、色んなケースあるけどね。その中の一つとして、確かにあるよ。嫌なことじゃないと自分に言い聞かせるために、それにのめり込む子。後はまあ、のめり込んでいるフリをして自分を痛めつけたいっていう子もいるよ」
「え。なに、そんな変態いんの?」
「SMプレイの話じゃなくってさ。あーまあ、あれもそういった側面がある人もいるんだけどね? でもそうじゃなくってさ。自分がすごい悪い子になっちゃった、だから酷い目にあったんだって考えた子に多い傾向なんだけど、自分に罰を与えないと落ち着かない状態になっちゃうこともあるんだよ」
 お客さんの中には、立派な地位にいる自分が貶められることに興奮するって人もいるけどねー、と、遠い目をするシャルロットにどう声かけしてよいかわからず、行き場のない手をきゅっと握る。その様子を、ちらりとシャルロットが一瞥したことに彼は気がつかない。
「まあ、どんな癖だってその人を作っているものだから、理由がないものは極論、無いとボクは思うけど……それが仕事でないのなら、無闇やたら他人を暴き立てるもんでもないし。どんな性癖であれ趣味であれ、人に迷惑をかけたり、自分に迷惑をかけないならいいんだよ」
「自分に迷惑ってなに」
「そのままだよ。自分をないがしろにするのは本当によくないんだよ? そのうち体なんてなんだっていいやって思い始めちゃうんだから」
「なにそれ」
 体が壊れたら新しい体に乗り換えるだなんて、ゲームや漫画の中でしか見たことがないと彼が軽く息を吐くと、シャルロットはぎゅーと抱きしめてきた。
「心配だよー。ハードな鍛錬ばっかやってるし、危険な仕事も積極的に受けるしさ? 帰ってきたとおもったら、明後日からまた出張だっていうじゃない」
「オレが出張ばっかなんじゃなくて、シャルが異動したオレのとこに来てるんだって……」
 呆れた、と肩を落とす。
 この話をしている時点で、既に支部の異動は四回目だった。故郷の国からは長いこと離れている。
「だいたい、最初に会ったときはシャルが置いてった癖に。なに被害者みたいな顔してんの」
 最初にお世話になった支部でシャルロットとは出会った。身体検査やメンタルの安定性を測る面談もシャルロットが担当で、どれだけ邪険に扱っても臆することなく話しかけてくるものだから段々とほだされていき、ボクたち友達だもんね! の一言に押されて友人になった。
 だというのに、その数日後に他の支部にシャルロットが異動になってしまって、ぽかんと口を開ける間もなく「ばいばーい」とあっという間にいなくなった。
 あの日はそれなりにショックを受けて、裏切られたような気持ちになったものだ。翌日には訓練の厳しさに意識が飛びかけたので忘れたけれど。
 そのうち彼にも異動の話が出て、そうしたらその支部にシャルロットが出張してきて。お互い異動したり出張したりと、なんだかんだ長い付き合いになっていた。
「うー、ボクも色々あるのー。そっちだって飛び回ってるくせに」
「オレはやりたいことがあるから」
「もうランクCに上がってるのに、まだあるの?」
「Cで満足するのが間違ってるよ」
「そうかなー」
「そうだよ」
 シャルロットの言葉に、少しだけむっとして返す。彼は出会ったときからCランクで、今もCランクを保っている。保つだけでも難しいとは聞くが、シャルロットの能力と功績を考えれば、Bは容易いだろうに。
 組織に所属する他の子にしたってそうだ。上のランクがあればそこを目指して邁進するのが当たり前だろうに。出来ないことがあればどうやったら出来るようになるのか、何が不足しているのか考え、そのために必要なことを学び、経験し、実践すればいいのに。口を開けば自分はここまでだとか、遊ぶ時間がなくなるだとか、そんな危険な仕事はできないだとか甘ったれたことばかり言ってのける。
「ランク上げたいってのは、やりたいことのため? だよね」
「そう。拾ってもらった恩を返したい」
 彼が身を粉にしてまで鍛錬に励み、功績を積んでいるのはひとえに組織に恩を返すためだ。
 正確には、組織に拾われたキッカケとなった人物に恩を報いたいのだ。
 いい子であることをやめた夜。彼は血と脂と肉と腐臭と汚れの中で、警察にいかなくちゃ、と外に飛び出した。
 栄養も睡眠も足りていない体だというのに。骨の隙間で萎んだ内臓がごそりごそりとぶつかりあって、痛みと軋みに死を予期して喘ぐ中、それすらも構わずつかの間の自由に踊るように走って、空に浮かんだあまりにも美しい月を見ながら、喘鳴と虫の声を耳にしながら足を動かした。
 その先で、出会ったのだ。
 夜、としか呼称のできないその人物に。
 その人は、行き場がないのであれば組織に来てもよいと口にした。警察に行っても構わないと促され、彼は自らの判断で此処へやってきた。不思議なことに、その人物の顔や声は朝靄と共にぼやけてしまい、それ以降、お礼を言おうと探して回ったが出会うことが出来ないままでいる。いずれ、どこかの支部で出会えたなら。そのときには胸を張れる功績と共にあの日の礼を言おうと決めて、彼は努力を続けている。たとえ世界中の支部を回ることになったとしても、そのために伝説ともいわれるAランクを得る必要があったとしても、それより過酷な道を歩むことになっても構わない。元より拾われた命なのだから。
 そう考える彼の横顔を、シャルロットは心配そうに見ていた。
 生真面目で、努力家で。自他共に厳しく、それでいて根が優しい彼のことが、シャルロットは心の底から心配だった。彼を駆り立てる想いが、彼自身をやすり、磨き続け輝かせていく。彼の有様はうつくしく、きっと彼であれば、Aランクにもいつか手が届くだろう。しかしそれ故に、彼の体は他者よりも摩耗し、未来を縮めることに繋がる。
 たとえその事実を伝えたとしても彼は歩みを止めないだろう。輝きを求めて、手を伸ばすだろう。それを取り上げてしまえば、今度こそ飛ぶ力を無くしてしまうだろうとシャルロットは考えていた。だから止めない。心配とお小言は口にするけれど。
「無理はしちゃダメだよ。夜はちゃんと寝て、ごはんだって三食たべて……」
「はいはい。それで、診察はもういい?」
「もー、ちゃんと聞いてよぉ……。うん、もういいよ。おしまい。採血の結果はまた郵送するね」
「ん」
 椅子から降りると、足早に彼は部屋を退室する。最後まで心配そうなシャルロットには気がつかずに。

 輝きを求めて身を削り続けたワタリガラスは、再び運命の夜を迎える。
 くしくも、その夜も月のうつくしい夜だった。そして出会ったのだ。これまでのなによりも輝くいちばん星に。
 そしてヴィダと名を付けられた彼は、巣を戴く樹を見上げる。


 ・キセキレイの本


 その赤ん坊は、真冬に捨てられた。
 世に生まれる命は、全てが望まれたものではない。だからといって生命である以上、無碍に扱うことも出来ず産み落とされ、中には苦悩の末に命を奪う選択を取るしかない親もいる。そんな、何らかの事情で育てることができなくなった子の命を繋ぐために、多くの国では子を託すことのできる場所が存在する。
 とある国では、教会の横に併設された建屋にて、望まれない子を預かる役割を果たしていた。
 その建物の目の前にある歩道。その道路側に、後にバートと名付けられるその赤子は、可愛い産着に包まれた状態でぽつんと捨てられていた。
 間もなく日付を跨ぐという時間、建物の人が戸締まりを確認しにきた際、大声で泣く赤子の声に気がついて飛び出し、慌てて保護した。屋根も届かない場所に置かれていた
赤ん坊は体も小さく、凍えきってしまっていたが幸いにも無事だった。
「おーよしよし、元気なようでよかったよ」
 赤ん坊をあやしながら、具合が悪い様子はないか確認していく。捨てられてから間もなかったのか、産着やおしめが汚れていることもなかった。本当に、たまたまあの時間に見回りに出ていてよかったと男は安堵する。
 しかし、何故わざわざあんな場所に置いていったのか。朝まであのままだったなら、この小さな命は確実に無事では済まなかっただろう。
 この建物には、事情がある人のために対面することなくいつだって赤ん坊を安全に預けられるような仕組みにしていた。ただ建物の前まできて、スライド式の小窓を開けてそこから赤ん坊を預けてもらえればそれだけでいいのに。これではまるで、殺そうとしているようなものだ。
「ほんと、信じらんないよなぁ」
 彼からすれば、生む選択をしておきながらやっぱり要らないと考える人間全てが信じられない。ましてや、こんな風に粗雑に扱うだなんて。
 ぶつぶつと文句を言いながら子供をあやす彼の背後に、何時の間にかこの建物を管理している女性が立っていた。
「なにをぶつぶつと言っているの」
「わっ、施設長。びっくりした」
「その子が先ほどの?」
「ああ、はい……。可哀想ですよねえ」
 よしよしと男がゆすると、赤ん坊はきゃっきゃとはしゃいだ声を上げる。かわいい、と頬を緩める男に構わず、施設長と呼ばれた女性はしばらく考え込み、一言告げた。
「この子は体調に問題がないとわかったら、他の団体に回しましょう」
「え、何故ですか?」
「本当に殺すことが目的だったなら、それはおそらく母親の親族が捨てにきたのでしょう。そうだとしたら、母親が来るかもしれない」
 それのなにがいけないのか、と男は首を傾げる。親に望まれない子ばかりがやってくるこの施設で、やっぱり育てることにしたと引き取りに来る親はきわめて少ない。この子が親に望まれていなかったわけではないのなら、幸せなことなのではないのか。
 よく理解できないといった顔をしている男に、施設長は言い聞かせるようにゆったりと語りかける。
「たとえば、本当に母親が捨てたのに引き取りにきた場合。それは他に使い道を思いついたのかもしれません。あるいは親族が捨てにきていた場合だったなら、母親以外には命を望まれていなかった子だということ。どちらにせよ引き取られたあと、この子に先はないでしょう」
「や、まさかぁ。だいたい、母親じゃなくて父親かもしれないですよ?」
「こんな乳幼児を? ありえません。元より遺棄するつもりだったなら……こんなお洋服、着せないでしょう」
 この女性は、隣接する教会の出だ。
 その教会は行き場のない女性が集っており、それ故か彼女は普段から男性に対して当たりが強いことで有名で、そのうえ聡明で決して自身の意見を曲げない頑固さを持ち合わせている。ゆえに施設で働く男性たちの間では文句が絶えない上司だが、なにぶん彼女は美しく、老いているがそのぶん存分に包容力を感じさせる人物のため、誰も面と向かって彼女に文句を言えない。母ちゃんに逆らえる男児は少ない。
 たぶんに漏れず、この男も「そりゃああんたの偏見だろう」と反論しかけたが、口には出せなかった。赤ん坊を撫でる彼女の表情があまりに優しく、憂いを帯びていて、それ以上の言葉が憚られたこともあいまって、結局この日も文句はいえなかった。
 赤ん坊はよくわからないまま、きゃっきゃとはしゃいでいる。懐こい子のようで、よく泣いてよく笑い、人を見てははしゃいで手を伸ばしてくる。その頬は丸く、腕も足も、ちぎれそうなくらいにもちもちでふくふくとしていた。
「……捨てる前に、手向けとして着せたのかもですよ?」
「だとしても、この子はうちでは預からないことにします。あなたも冷静さを欠いていますし」
 そう言い残し、施設長はどこかへ電話をかけに行ってしまった。後には瑞々しく、淡い香りが残る。彼女はいつも決まった花の香りがする。首元に小さな花の入れ墨をしているので、その花の香水なのだろうか。男は残念ながら花にも香水にも疎く、興味もないので、飽きて泣き出した赤子を抱き上げ、あやすことに勤しんだ。

 赤ん坊はそうした経緯で、組織に引き取られた。
 ふくふくとしていたその子は健やかに成長し、同じような境遇で組織に引き取られた子の面倒をよく見る、いい子に育った。バート、と名乗るようになった子供は、褒められることが大好きだ。仕事をして、褒められる。小さな子の面倒を見て褒められる。褒められるということは、認められるということだ。ここに居ることを認められたということだ。だからバートは褒められることが好き。スキンシップも大好き。勉強は眠くなってしまうけれど、いい点数をとれば組織の人はとても褒めてくれる。だから頑張る。
 もし頑張らなくなって、褒められなくなってしまえば、ここには居られなくなってしまうから。だから頑張る。どうせなら誰より頑張って、すごい強くなって賢くなればみんなが自分を好きになって褒めてくれて、ずうっとここに居られるだろう。誰かが、自分のことを欲してくれるだろうから。だから頑張るのだ。
 そうして成長したバートは、かけがえのない友人を二人得た。
 一人はシャルロットで、一人はヴィダ。
 シャルロットはいつまでも三人で居たいと口にしていたし、バートだってそれが叶うならずっと楽しく過ごせるだろうなと考えてはいたが、同時に無理だろうというのも理解していた。
 っていうか、年頃だし?
 恋愛してみたいし、結婚だってしてみたい。かわいいお嫁さんの横で、ぴしっと決めて、みんなに祝福されたい。それはきっと、誰かにいずれ引き取られる身では叶わないかもしれないけれど、夢を見るだけなら自由だ。実際に結婚するってなったら色々と大変なのはわかっている。
 さまざまな色恋沙汰の、あらゆる結果の先で結びついた子供らで組織は構成されているようなものなので、ちゃんと、わかってはいる。わかったうえで、かわいい彼女や素敵な恋愛に夢を見ているのだ。
 同じようにヴィダだって、誰かに恋をすることだってあるだろうとバートは思っていた。
 ずっと同じ関係を続けるというのは、口にする手軽さに比べて想像以上の努力と根気が必要で。それを続けたってどうにもならないことがあるのだとバートは理解していた。彼が組織で出会った、多くの友達の何人かは引き取られ、何人かは仕事をしくじり、二度と帰ってくることがなかったから。どれだけリスクを考慮しても、どれだけ綿密な作戦を練り、その通りに行動しようとしても。突然の大雨で狙いが狂うことだってある。
 自分ではどうにも出来ない、埒外の出来事。
 ヴィダにとってはそれが、あの夜の、クリスとの出会いだったのだろう。
「……ヴィダと家主、うまくやってるかなぁ」
 クリスとヴィダが住んでいた家を、いつかの日のように双眼鏡で眺めながらバートは呟く。
 ここにはバートしかいない。シャルロットはヴィダとクリスを連れていってしまったし、自分にはやることがあるから彼らにはついていけなかった。
 そう、万が一が起こった時には、彼らの戻る場所をバートが片付けなければならない。家の中にある彼らの痕跡を片付け、周囲の誰も気がつかないうちに引っ越したように見せかける。
「つまんねー仕事」
 朝食代わりのシリアルバーを囓る。ごりごりと奥歯で砕く感触が、まるでこれまでの楽しかった時間ごと砕いているようでバートの表情を曇らせる。
 組織で過ごす時間も、バートにとっては楽しかった。色んな子と出会って、遊んで、勉強してはしゃいで仕事をして褒められる日々はバートにとって楽しいものだった。
 なので、外からやってきた子が口々に大変だ、厳しいと泣いているのを見ても、「そうだなー、大変だよなー」と頭を撫でるぐらいしか出来なかった。ずっとここにいたバートからするといまいち共感し辛いのだ。
 確かに勉強も訓練も大変だし、失敗するとそれはもうひどく怒られたものだけれど、本番で失敗すれば死ぬのだから当然だ。なので他の子に比べれば、組織の生活に不満はない。それでも、ヴィダやクリス、シャルロットやこの街の人と過ごした僅かな時間というのは、これまでの何よりも楽しい時間だった。
 たとえ仕事でへとへとになっても、どれだけ遠出していても。わざわざこの家に戻ってきてから、ベッドで眠りたいと思うぐらいに。
 朝起きて、ヴィダに手伝うよう小言をいわれながら一緒にキッチンに立って。「おはよー」と起きてきたクリスに飛びついて、困ったように軽く頭を撫でられて、それをヴィダが咎めてきて。騒動を聞きつけたシャルロットが部屋に飛び込んできて、わいわいと過ごすあの時間が無くなるのは、嫌だった。
「頑張れよー。応援してるからさー」
 届かないだろうことは承知で、バートは願う。どうかこの場所を、この手で壊すことにならないように。また自分と、シャルロットと、ヴィダとクリスと、できればマリーや他の人も一緒にここで過ごせますように。
 キセキレイの願いははたして、巣を戴く樹に届くだろうか。



 ・フクロウの本


 その子供は、自分がシャルロットという名だということを幼いうちから理解していた。
 三歳の頃には大人に交じって他の子の世話をしようとして、体の扱いがうまくいかずにすってんころりんと転がり、一緒になって泣いたりもした。
 空いた時間はひたすら本を読み、たまに他の子に交じって体を動かし、あとは本を読み、ペンを手にとり、また本を読んだ。
 こぽこぽ、という試験から立つあぶくの音と、紙のめくられる音。それから機械の低い振動音。薄暗い青と灰が満ちた部屋。シャルロットが小さい頃を思い出すときは、いつも同じ光景で脳が満たされる。
 シャルロットが本を読み、誰かの面倒を見て、大人について診察や医療に従事している間に他の子は多くのカリキュラムをこなしていた。勉学、作法、技術を学び、実際に何件か仕事を受けたあとに研究や医術に適正のある子供はシャルロットと似たスケジュールになることもあったが、彼においては最初からその道を歩むようにと育てられていた。
 実際、そう生まれ、育つように計画されてシャルロットはこの組織の中で生まれたのだ。
 親の顔も名前も、シャルロットは知らない。組織の中にいるのかも知らされていない。世界中の支部を集めても、組織に所属する女性は、ただ一人だけ。ならばその人物が母親なのかと尋ねにいったこともあったが、彼女は豪快に笑い飛ばして頭をぐしゃぐしゃと撫でてきた。ちなみに彼女は、シャルロットが十歳まで所属していた組織の支部長である。
「あっはっはっは! そんな誰でも思いつくような下世話な噂話を、あんた本当に信じてるのかい。この立派なおつむは、ほんっとうにそう考えたのかなー?」
「信じてはないです……。ボクそんなに頭悪くみえます? 心外です。可能性の一つを、当事者の口から否定してほしかっただけですよお」
「あーほんと、小賢しく育ったねえ。可愛くないったらありゃしない。ま、でも? へらへら笑いながら顔色伺っておべっか使ってくる半端モンよかよっぽど可愛いけどね。顔はいいし。背、もうちょっと伸ばしたら?」
「髪の毛じゃないんですから、身長って、そう気軽にどうこうできるもんじゃないですー。何より、ボクは小さいほうが可愛いからいいんです」
「あっはっはっは。あんたは愛玩系にゃ向かないよ。愛くるしくいたいなら、もうちょっとポンコツになりな。くだらないことを気にしないで、気にかけるべきことには
たまーに目を瞑るんだ。気にするのはやることだけで十分だからね」
 どうだ、出来るかい? と聞かれ、シャルロットは首を横に振る。
「……無理です。気になったら、調べます」
「だろうねえ。だから可愛くないって言ってんだよ」
 支部が世界のあちこちに散っている組織の中で、どこが本部なのかを知っている人はほぼいない。同じように、各支部の中で誰が本当のボスなのかを知っている者も殆ど存在しない。
 支部長になるためには、ただ戦闘技術が抜きんでているとか、秀でたものがあるというだけではなれない。この人こそ組織の真のボスなのかもしれないと思わせるだけの存在感と強さ、そして何より、ストーリーを持っている必要がある。たとえば彼女であれば、組織を結成した理由はイケメンが大好きで、選りすぐりの男たちと暮らし、好みの男に育成したいから組織を結成しているというストーリーがある。そのストーリーを聞いて、実際に相対した時にこれはなるほど、と思わせるだけの貫禄と美貌を備えており、シャルロットは本当のボスが誰か知っている身でありながらも、実はその人に騙されていて、この人が黒幕なのかもしれないと思えてしまうほどだった。
 噂では荒れ狂う海を一喝で沈めたとも、肩に背負ったバズーカで気に入らない男を弾にして彼方まで吹っ飛ばすとも聞くが、彼女なら或いは……とつい思えてしまう、と考えたあたりで、机にドンと置かれたラム酒の瓶からシャルロットは視線を外した。
「じゃあ、ボクは誰の子だっていうんですか」
「さあねえ。そもそも、遺伝子情報が人由来かもわかんないよ。人より優秀なもん作ろうってときに、わざわざ人を素体にするかね」
「人の形を作るには必要だと思いますけど……」
「哺乳類ではあるだろうけどねえ……イルカとか? 頭の良さでいやカラスも立派なもんだが、あんた見てると、クリオネとかくらげのほうがイメージつくね」
「可愛いのは嬉しいですけどお……そこから人型のもの作るのは大変じゃないです?」
「ま、あたしからすりゃどうやったのかなんてまるで見当もつかないんだ。素体の想像なんて出来るわきゃない」
「むー……」
 そういって、彼女はつまみのナッツを手に取ると、ぴんっとシャルロットに向けて弾く。
 それを慌てて受け取ると、口に入れた。毒だった。
「げっほげほ! なにするんですかぁ!?」
 急いで吐き出し、持ち歩いていたポシェットから適切なカプセルを一つ出すと、急いで口に含む。そんなシャルロットに彼女は腹を抱えて笑った。
「あっはっはっは、気付いてよかったよ。あんたは頭は優秀に作ってるけど、それ以外は普通の子だからね。なんか自分は特別だ~って危機感なくしてたらどうしようかとおもってたよ」
「はーもー……これだからうちのお偉いさん達は嫌なんです……。もう疲れました。ボク帰ります」
「まあ待ちな。確かにあんたは、組織の誰かになんらかの方法で、頭がよくなるように作られた子だよ」
 今度は未開封のジュースを手渡して、座るように促す。シャルロットは瓶のラベルや底を確認してから、開封して口にする。おいしいオレンジジュースだった。しゅわしゅわと炭酸が入っていて、さっぱりする。
「あたしではないけど、組織の誰かと余所の女とで出来た子かもしれないし、妖精の国から攫ってきたのかもしれない。わかってんのは、赤ん坊の頃から此処にいて、あたしの元で育った、頭がよくて、気が弱くて。そのくせ我が強くてたまーに可愛くない、うちのがきんちょ。それだけじゃ足りないのかい」
 そこで言葉を引き取り、ずいと身を乗り出す。
「わかってんだろ、親の顔がみたいって出てったちびすけや、大人になってから親をこっそり探したやつが、そのあとどれだけ絶望するかってこと」
「……まあ、はい。わかります」
 シャルロットと友達になった子の中にも、一人居た。その子も五歳くらいの頃に捨てられてしまって、ずっと自分が捨てられた理由を知りたいと言っていた。自分はいらない子だったのか、それとも最初から望まれていなかったのかが知りたいと言い続け、ついには仕事で街に出た時に逃げ出してしまった。
 その子は生まれた街で呆然としていたところを発見されたそうだが、後の行方は知らない。その子の親はとっくに離婚しており、それぞれで新しい家庭を築き、新しく生まれた子と暮らしていたそうだ。彼らの家庭がそれぞれ無事だったのかは、シャルロットの耳には届かなかった。
 他にも、聞いた話では組織を卒業し、国に配属された子が立派になった自分の姿を見てもらいたくて親元に訪問してしまい、知らないと必死に存在を否定されてしまってから失意のまま仕事ができなくなり、クレームを引き起こした事例もあったという。
 もちろん、組織内の教育の中でも、親を探していいことはないと口酸っぱく教えてはいる。しかし今のシャルロットを見ても明らかなように、どうしても気になってしまう子はいるのだ。手にした携帯端末の端っこのほうに気泡があるのがどうしても気になるときのように、普段は忘れていても、時折、猛烈に気になってしまう。
 貼るときにはあんなに注意していたのに、気がついたらぷつりと生まれていた小さな泡が、ずっとずっと心のどこかに穴を生む。
 心の穴は寂しさとなって、シャルロットを蝕む。
 彼と出会った子たちは、様々な理由で一緒にはいられない。任務中に命を落としたり、判定落ちしてしまって他組織に移籍してしまったり。将来有望であれば早くから買い手がつくこともあり、シャルロットのまわりからはどんどんと知り合いがいなくなってしまう。仕方がないとわかっていても寂しくて、寂しいときは心の穴についつい意識が向いてしまうのだ。
 自分はこのまま、組織の中でずっと仕事し続けることが決まっている。それこそ恋愛だってしないだろうし、結婚もしないだろう。
 ボクの人生お先真っ暗~まだ十歳なのに~と項垂れるシャルロットを見ていた彼女は、パンと勢いよく手を叩くと言った。
「よし、あんたは異動させよう。もっと色んな場所行って、きりきり仕事しな。なまじ頭がいいから余計なこと考えるんだ。そんなやつは、バナナしか言えなくなるまで働かせたほうがいい。そんぐらい疲れ果てりゃ、ちょっとは可愛げも出るだろ」
「えっ、ちょっと待ってください。そんな横暴な」
「電話するから黙ってな。……あーもしもし? あたしあたし。なに、メールしろ? うっさいねえ、文字打つのだるいんだよ。え? 音声認識? 機械に一人でぶつくさいってんのばからしいだろ」
 電話相手の文句を全てなぎ払い、明後日からシャルロットを受け入れるよう言いつけ、さっさと電話を切る。かたや日頃パソコンの前でモニタに並ぶ文字にぶつぶつと文句を言い続けながらデータ入力をしているシャルロットは、心の底から電話相手に同情した。っていうかこんな押しつけるように向かわされるの、あまりに気まずい。気まずすぎる。ちょう気まずい。人の心がないのか。
「って、明後日? 明後日って言いました?」
「そうだよ、早いほうがいいだろ。ほらさっさと支度しな。飛行機は取っといてやるから。乗ったことあるだろ」
「一人ではないですよお! え、誰かあの、せめて向こうの空港まででいいんで、誰か付いてきてください! 子供だけじゃあ止められます! ボクまだじゅう……」
「都合よくガキを盾にすんじゃないよ。ほら行きな。あたしゃ仕事があるんだよ」
「ラム酒煽りながらなに言ってんですかー!」
 シャルロットの渾身の悲鳴にも構わず、彼女がしっしと追い払う仕草をすると、物陰から音もなく彼女の護衛(超絶イケメンs)が現れ、シャルロットに退出を促す。
 仕方がなしに部屋を出ると、彼らもシャルロットを哀れに思ったのか、後ほど予定の空いている人を一人つけてくれるという。そうして渡航した先で、シャルロットは後にヴィダと名を変える彼と出会う。
 彼と出会ったのは、寒さの厳しい支部にも慣れた頃のこと。シャルロットに突然、検査依頼が舞い込んだ。
 新人かーと書類を目にして驚く。
 年齢は十。これは、引き取ったあと育成することを考えるとぎりぎりの年齢だ。
 しかし体がぼろぼろな状態でやってきたにも関わらず、食事と睡眠を与えたあとの体力テストはクリア、過酷な境遇に置かれて尚メンタルは一定の水準を保っており、組織に対しても忠誠心が篤い。なにより、すでに経験があると備考欄に赤字で注記があった。それは決していいことではないが、組織としては歓迎すべき条件だった。
 実際に出会って、話を聞いて交流するうちに確信する。この子はおそらく、すぐにBに到達するだろう。もしかすると、Aまで到達できてしまうかもしれない。
 だから疎まれても、彼に声をかけ続けた。
「ねえ、ボクたちもう友達でしょ」
「え……うーん。うん。たぶん」
 じゃっかん引いていた気がするけれど、別に構わない。過酷な訓練にも、厳しい勉強にも食らいついてモノにして、成り上がろうと必死に走り続ける、飢えたオオカミのような彼に、シャルロットは初めて安心したのだ。彼ならきっと死なない。強くなって、ランクを上げて。天文学的な金額になって、誰からも引き取られなくなる。そうしたらきっと、組織内の要職に就くことになる。歴代の優秀すぎる人たちはみんなそうだった。そうしたら、ずっと友達でいられるんだとシャルロットははしゃいでいた。赤ちゃんの頃から知っているバートも優秀だと聞いているし、彼もきっと買い手が見つからないはずだ。それなら彼も、ずっと一緒にいられる。
 嬉しくて嬉しくて、幸せで。この時間がずっと続いて欲しいと思っているフクロウにとっては、いちばん星のように輝かしく、愛らしい金糸雀の登場は青天の霹靂で。樹から落ちるほどの衝撃を受け、誰も聞いたことのない声で悲鳴をあげたものだ。今度はあの金糸雀に末期の声を上げてもらわないと、割りにあわない。
 さて、まもなくだ。
 フクロウはすでに、樹のふもとまで彼らを連れてきた。ヴェズルフェルニルはきっと彼らを許さない。風は枯れ、やがて止んで彼らを地にたたき落とすだろう。
 そうしたら惑わされてしまったワタリガラスだけを羽で受け止めればいい。それですべてが元通り。
 本当にそれでいいのか、と、耳元で声がする。それはあの金糸雀の声にそっくりなもので。
 うるさいな、とフクロウは己が耳をぱたんと羽で閉じた。


 ・金糸雀の本


 基本要項。愛されること。聡明であること。言うことを聞くこと。適切な判断を下せること。容姿端麗であること。耳に障ることのない、通る声であること。適度に非力であること。必要に応じて躊躇いなく行動できること。
 一人の愛らしい赤子が、ラッセル家に誕生したその日。すでに彼をどう育てるかは明確に決まっていた。
 そう生まれるように設計されていたのか、たまたま要件に合いそうな子供が生まれたのかは今でもわかっていない。観測外の出来事であるために、誰もわからないままだ。
 クリストファー・ニコラスと、ファーストネームとミドルネームの両方に聖人の名を付けられた彼は、現代に
神の子でも作ろうとしたのだろうか。ラッセル家の思惑は家が燃え尽きたが為に、推し量ることしかできない。
 わかっているのは、彼に与えられた役割というのはラッセル家の人柱になることであり、同時に人形であり続けるということである。
 どのような思惑だと気がついたとしても、ラッセル家の重鎮が言うとおりに行動をすること。そこに己の意思を介在させてはならず、そのうえでラッセルの判断が正しいか否かは常に考え、誤ることのないよう行動しなければならない。愚かでありながら聡明であることを望まれ、愛玩物のように振る舞いながら、望みを叶える側で在り続ける。常に庇護される立ち位置を取りつつも、敵対者を自ら刈り取れる位置を保つ。議論では敵対せず、己が優位な方向へ運ぶこと。
 与える立場でありながら与えられ、奪う立ち位置にありながら捧げられ続け、自身は求めず、求められ続けるように。
 常に相反するものを掲げて抱えて、金糸雀は体が大きくなっても同じ籠の中にいた。自由を求めて外へ出ようと繰り返す度に羽は折られ、足も手折られ、その痕跡も残らず綺麗に整えられていく内に、外だと思って焦がれていた場所はさらに大きな籠の中でしかないことを知り、ならばと望まれた通りに生きることにした。
 たとえば期待したより身長の伸びが悪ければ、骨を折り、万力込めて上下に引っ張られた。
 たとえば薬物や酒に酔って失態をおかすことのないように、幼少の頃から内臓に処置を施された。
 たとえば言うことを聞かなければ、自分そっくりの子供がひしめく地下へと連れていかれ、一人を選んで処分するように言われた。
 たとえば体臭の癖がつかないよう、特定の果物と水だけを与えられる日々があった。
 たとえば。たとえば。たとえば。
 体内に多くの調整を施され、様々な教育を経ながらも、クリスは二十を過ぎて生きていた。
 両親を含むラッセルの重鎮たちは、彼らが手塩にかけて育てた鳥の仕上がりにおおいに満足したようで、彼らは二年後には引退し、クリスが家の顔として表立って働くことが決まっていた。そもそも、貴族は働くことが好きではない。それは労働者の役目だからだ。それでもラッセルが労働を手放さなかったのは、表向きには貴族でありながら労働者の目線を持ち、理解があり、大切にしていると謳うことでより多くの支持を得られると考えていたからだ。彼らの多くは家の為と割り切りつつも、労働に身をやつす時間などひとときも取りたくはない。だからクリスを育て、全てを押しつけさっさと自分たちは多くの貴族たちと同様に、優雅な時間を過ごしたいのだ。
 そうして育てられた理想の後継者であるクリスは、生まれてからずっと、ラッセル家という雇用主の需要を満たし、期待に応え続けることで生きてきたので、今さら働く事に対して抵抗はない。貴族が取り繕った労働者ではなく、階級が貴族であるだけの労働者だ。故に、貴族でありながら企業からのウケはよかった。なにせ、仕事の労苦を彼は本当の意味で理解しているからだ。
 天性の金持ちはいつだって嫌われる。だが、金持ちから金を引き出さなければ企業は回らない。そこに金持ちでありながら、自分たちの目線を持っていて労苦を経験した者が現れたなら、そこに吸い寄せられるのは最早必然だ。
 すでに幾つかの企業や国ではクリスの存在を、顔は知らないまでも取引相手として認知しており、またクリスが提出した仕事の成果にも満足しており、彼がラッセルの後継者になることを疑うものも、批判するものもいなかった。

「……ラッセル家滅亡の余波はいったい何時まで続くのか!? かぁ。僕も知りたいな」
 とある昼下がり、街を歩いていた途中で拾った新聞の見出しに独り言つ。
 ラッセル家が滅亡した際のダメージは相当なもので、世界中のあらゆる企業に広く影響した。まだ途中だったプロジェクトだってあった。あれが頓挫すれば、それまでに支払っていたリソースの殆どが無駄になる。
 代わりにプロジェクトを引き継いだ人がいればいいんだけど、とクリスは新聞を読みながら考える。残念ながらそうもいかなかったのか、幾つかの知った企業の業績が大きく傾き、失意から命を絶った人がいることを紙面は鮮やかに連日訴え続けていた。
 あれから何日も経つのに、と新聞紙の日付を確かめる。その日付の新聞は過去に目を通していたが、家に届いた新聞には、いま目を通した箇所は無かった。
 ヴィダが、クリスが気に病むだろうと判断したニュースは極力排除しようと、テレビも新聞も、情報を選別してからクリスに与えるからだ。
 しかしどれだけヴィダが気を遣ったとしても、道を歩いていればテレビの中や街中にいる人々の噂話で自然と気がつく。ラッセル家が出資していた工場の稼働が止まり、大規模な失業者が出たニュースなどは、急に失業した旦那への不満として歩いていても耳に入ってくる。
 クリスがラッセル家の跡継ぎだと表明し、事業を再編すれば今からでも助かる命がある。しかし、それがわかっていてもクリスはその選択肢は選ばない。考慮もしない。
 あの夜に一度は潰えるはずだった命は、ヴィダが現在も預かっているとクリスは考えている。
 単純な数で考えれば、自分とヴィダの二つ分。かたや数えきれない無数の知らない命。どちらを優先すべきかを考えたうえで、クリスはヴィダを優先する。それは彼への感謝や好意であり、そうする方が自然で正しいことだと判断したからだ。
 ふと、新聞の片隅に占いコーナーを見つけて目を留める。今日のラッキーな星座とアンラッキーな星座。ラッキーアイテムはこちらとの紹介に目を通していると、そういえば両親や親族たちは東から西にかけて雑多なオカルトを信じていたなぁと思い出す。彼らは家に置く物や家具は素材や色にこだわり、置く場所や方角はどこがいいかと熱心に調べ、指示をしていた。家の人に限らず、クリスの出会ったことがある権力を持つ人は思いの外、科学の外にある証明できないものを信じる傾向があった。
 クリスの部屋にも幾つか、オカルトに基づく本があった。幼い頃に読んだそれらの内容は殆ど忘れてしまったけれど、森には魔女が住んでいるとか、深夜に歌うとヘビが来るだとかは、信じていた時期もあった。
 オカルトの真偽はともかく、あれだけ広く、鬱蒼とした森に誰にも知られずに住み着いている人がいたとしても、クリスは驚かない。それほど郊外で、人が足を踏み入れない森だった。人知れずに誰かが住み着いていても、何か得体のしれないものが住み着いていたと言われても、やっぱりなぁとしか思わないほどの、深い森。夜、ランプの明かりしか灯らない自室から見下ろすその森は、空と木々の境目もわからず完全な闇であった。
 あの森の奥まで逃げることが出来ればと、そう思った日もあった。実際は森の手前で捕まってしまったし、よくよく考えれば食べ物や水があるのかもわからない。
 それに、自然は美しいがおそろしいものだ。口にしていいように見せかけて、一度でも口にすればたちまち冥府へ招かれるようなものがいくらでも存在している。
 あるいは、森で命を落とすことも考えてはみたが、これもやはり確実ではないとやめた。ただただ長時間苦しんだあげく、家に連れ戻されればそれ以上に辛い思いをするのが容易に思い浮かんだからだ。
(もうちょっと、空想的に夢がみれていたなら、物事がうまくいったのかな)
 現実的に選択肢を潰していくと、消極的な選択しかできなくなるものだ。
 サイコロを手にし、1~5が出れば命を落とすことなく日々を過ごすことができる。6が出ればこの苦境から脱出することが出来るが、外れた場合は、命を持ったことを後悔するほどの災難に見舞われるとして、リスクのある賭けを取れる人がどれだけいるのだろう。
 ラッセル家や有力者がやたらとオカルトを信じるのは、ここに要因があるのだろうか。
 神は信奉の対価として恵みをもたらす。
 信じ、敬い、頼ることで救われるのならば、オカルトという理の外を信じることで、少しでも6が出る確率を上げていた……のかもしれない。
 ラッセルにとってクリスという存在は、自分たちの願いを叶えてくれる神様であり、贄だ。戴けば血を流す王冠と、座れば血を流し続ける玉座をこしらえ、都合のよい夢を与える存在として求められ、作られた。そんな存在が、都合のいい夢を見られるわけもなく、願いを持つはずもない。
 幼い頃に願ったのはただ一つだけ。自らの死。それだけだった。
(結局、一度もうまくいかなかったんだけど)
 隙を見て色々と試してはみたが、自ら願ったことはなに一つ叶わない人生だったので、十を過ぎた頃には望まなくなっていた。
 クリスは、自らの子供時代の頃のことをあまりよく覚えていない……ことにしている。思い出そうとすれば思い出せるのだが、酷い痛みと熱、その割に全身を骨の合間から湧き出す寒さが絶え間なく自らを包み、酷く視界が暗かったこと、そんなぼやけたものが靄のように頭に満ちてしまっていて、明瞭に思い出せない。
 本人はそれでよしとしていた。
 終わった話を無理に思い出したところで、なにが得られるでもないと意識することもなくなって、そのうち思い出すこともなくなっていき、さらに記憶は靄に食われていった。
 本人はそれもよしとしていた。必要なのは過去に何があったかではなく、目の前にある仕事と役割と、未来に待ち受ける出来事への対処とそのための知識と経験だからだ。
 籠の外を望んだのは、遠い遠い昔の話……だったというのに。
 まさか、そんなとうの昔に諦めた夢が叶うより前に、家が滅びるだなんてことになるとは、思わなかった。ラッセル家が滅亡する未来なんてものは、想像できなかった。そんな家が滅びることで、あっさりと夢が叶うことになるとも、もちろん、想像できなかった。
 あの夜、クリストファー・N・ラッセルは死んだ。今ここにいるのは、ただのクリスという名の人物だ。
 あれだけ疎ましかった家のしがらみが無くなり、好きに空を眺めて過ごせる今というのは、夢の先の出来事であり、空想したことすらない世界だった。
 この日々を続けたいと、クリスも思う。
 けれどそれは、ヴィダが望んだ延長線上にあるべき願いだと考えている。
 彼がもし、この日々を終わらせて組織へ戻りたいというのなら、この場で首をちぎって彼に捧げるだろう。ヴィダにはそれを望む権利があり、クリスにはそれを叶える責務がある。
 ――果たしてヴィダが願ったのは、クリスと過ごす日々であった。
 組織から追われ続ける毎日ではなく、当たり前の日々として今を過ごしていきたい。彼がそうしてクリスを頼ってきたのだ、全力で応えるのが今のクリスの役割であり、至上命題である。

 そうしてやってきた巣の下で、いつも通りに金糸雀は振る舞う。いつもの通り、やることをただ期待された通りにやるだけ。その結果、樹の上下がひっくり返るような事態が起きたとしても。巣と卵さえ無事であればどうとだってなるのだから。



         *


 通された部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、無数の殺意が明確にヴィダとクリスを貫いた。
 動物の皮を用いた絨毯が敷かれた、豪奢な調度品が置かれた応接間で、ソファに腰掛けて待つよう案内をした男も、隠す気もなく二人に殺意を向けたまま、部屋の入り口に下がる。じぎりと、大きな音を立てて錠がかけられた。
 クリスがソファに腰掛け、ヴィダはその横に立つ。彼らの動きは、別に事前に示し合わせたものではない。それでもクリスはヴィダに座るよう促さなかったし、ヴィダもまた、何を言うでもなく彼の横に立ちながらそれとなく周囲を伺っていた。
 正確には、ヴィダは口を開くことができないでいた。
 意識して呼吸を行い、手がコートの内に伸びそうになるのを押さえる。
(ここまでするか……?)
 組織に所属して五年。危険な任務も、重要度の高い任務もいくつもこなしてきた。ひりつく会議にも立ち会ったし、違反者に処分を下す場にも立ち会ったことがあった。それらの経験を全て思い起こしたうえで、いま二人が立ち会う現場の異常性を実感する。
 室内には、入り口に二人、奥側の窓に四人。いずれも卒業生が立っていた。ヴィダの知った顔はいない。
 この部屋に招かれる直前に、シャルロットが口にしていた言葉を思い起こす。
『ヴィーくん、間違っても刃向かおうとしないでね。今日のために、世界中から卒業生を集めたんだから。ヴィーくんは確かに優秀だけど、一人で出来ることには限界があるんだよ。だからお願い。間違っても、抵抗しないで』
 部屋に通される前に、シャルロットはヴィダの手を握り、必死に訴えていた。
 元より抵抗できるとは考えていなかった。ヴィダの経歴も、組織で培った功績も知った上で彼らは武装解除を求めていなかった。たとえ抵抗したとしても容易にねじ伏せられる目算で動いているのだと、言外に圧をかけているのだろう。
 それに、とヴィダはクリスに視線を向ける。
 彼はあのラッセル家の人間だ。それも、唯一の跡継ぎである正当な血を継ぎ、教育を受けた人間。世界中の金持ちから疎まれ、排除を要請されておきながら、長らく手出しできなかった家の跡継ぎが、どんな能力を持つのか誰も知らない。
 実際には、彼に戦闘力は皆無だとヴィダは見積もっていた。あの町で過ごす間にクリスは何度か怪我をしたし、喧嘩になっても彼が殴り返しているところを見たことがない。コートを着たヴィダを持ち上げることも出来なかったところを見るに、筋力は一般的か少し下ぐらいのものだろう。
 けれど、それを知るのは共に生活をしたヴィダだけだ。組織の……いや、世間の多くはクリスという存在の情報を持たない。それはラッセル家の滅亡を願った貴族たちも、滅亡に加担した組織の人間も、みな同様に彼に対しての情報は殆ど持っていなかった。ならば、過剰に警戒するのも当然だろう。
 ……だとしても、やはり過剰に思う。
 呼吸が浅くならないよう、指の先が震えないよう、ヴィダは思考を巡らせることで平静を保とうと心がける。
 部屋は薄暗い。
 窓は厚いカーテンに覆われ、古い布の重厚な匂いが感じ取れる。壁の一つも同じカーテンに覆われているところを見るに、本棚があるのかと思うがその裏に幾人が待機しているのか。微動だにしない布を見ても、推測はできない。正確な部屋の大きさが掴みづらいのは、薄暗さ以外にも理由がありそうだ、と壁と天井、床一面に広がる絨毯の模様を見る。複雑な曲線と文様が折り重なり広がっていくような絵柄が続き、目の錯覚を引き起こすような造りだ。唯一、クリスが座るソファの足下には動物の毛皮が敷かれ、模様が見えず、そこに視線を向けるとぐるりと回りそうな視界が落ち着く。
 ヴィダはこの部屋を知らない。
 この支部のことは知っているのに、この部屋へ続く廊下への入り方も、もちろんこの部屋のことも見たことがなかった。
 重い。
 肩に力が入りそうになる。
 指先が、落ち着かない。
 いっそ引き金に指をかけて、一か八かにかけて暴れてしまいたくなる。
 それほどに空気が重く、誰も彼もが二人の生命を絶つ為にここに集い、つぶさに監視していた。その視線だけで体中が穴だらけになってしまう。痛みを覚える。肌がちりちりとして、吸う空気がいやに乾燥している。咳が出そうだ。ホコリが喉と肺を引き裂いてきそうだ。
 なんの音も立たず、重い沈黙が部屋を満たし続ける。もしこれ以上沈黙が続けば、煮詰まったそれらが石となり、天井から二人を押しつぶしてしまうのではないかと思えるほど、重くて、苦しくて。床に描かれた模様が、カーテンのタッセルが、渦を巻いて、絡まり合って、首が。全身が締め上げられて。
「こんにちは。はじめまして、ですよね」
 唐突にクリスの声がして、はっとする。
 同時に、ふっと体が軽くなった。気がつくと、額に汗が浮いていた。額だけではない、手のひらも、おそらくは背中にも汗が流れた。そんなことにも気がつけないほどに、意識が狭窄していたことに息を飲む。
 何時の間にか、クリスの向かいに一人の男が腰掛けていた。彼は室内だというのに薄い色のついたサングラスを掛け、薄く微笑んでそこに座っている。
 心臓が、跳ねた。
 あきらかな動揺が浮かび、クリスが自分に視線を向けたのがわかる。しかし、どうにも出来なかった。
「おかえり。ひさしぶりだね」
 男が、口を開いた。視線はまっすぐにヴィダに向けられている。その言葉に何か返そうとするも、全く言葉が結べない。掠れた息が、かろうじて喉を震わせるも意味のある音にならない。
 間違いない。間違いようがない。
 ヴィダが救われたあの夜の、あの恩人がそこに居た。
 彼に恩義を返すために自らを鍛え、高め続けたのにいつまでも出会う事の出来なかったあの人物。組織の中で、もっとも秘匿されていた、もっとも地位の高い者。それがイコールで結ばれると同時に、考え得る中で最悪の邂逅を果たしたことに気がつく。
「あなた、ミスターRですね?」
 クリスが発した言葉に、ヴィダは意識を向ける。ミスターアール? なんだそれは、と尋ねる前に、クリスが言葉を続ける。
「うちの家の誰がいつ、どんな依頼をしたかまでは知りませんが、ミスターの名は知っていますよ。その節はお世話になりました」
「いちいち依頼主のことなんて覚えていないけれどね」
「そうですか? 見た目が陰湿そうなんで、覚えているかなって思ったんですけどね。まあいいや。そんな雑談をしにきたのではないですし」
 よいしょ、と足を組み、重ねた側の膝あたりで両手を組む。周囲の殺気に、動揺が交じった。
「もっと有意義な話をしましょう」
 うっすらと笑みを浮かべるクリスの様子に、無理をしたものはない。その様がうすら恐ろしく、ヴィダはこれまでとは異なる緊張を抱きながら二人を見る。
「僕の名はクリストファー・N・ラッセルです。今はただのクリスなので、そう呼んでください。あなたのことは……ええと、ミスターRとお呼びしても?」
「その名は複数を指すからね。レグナムでいいよ。レグナム・レルム・レプリカント。ここは私の王国だ。君がいくらたいそうなものを戴いていたとしてもね。……さて、王冠は必要かな。相応しいものを用意できるよ」
「いえいえ、僕としては王冠は地に埋めてしまって、礎にでもしてしまったほうがよいように思いますよ。そこから芽吹いた先に、王国は自然と出来上がるでしょう」
「あるいは地の根に宿るのかい」
「それも一つの道でしょう」
 二人の会話が進む度に、周囲からは困惑と動揺が静かにさざめきを立てる。
 一人一人の気配は微弱なもので、ヴィダをもってしても正確なところが読み取れない。それでも隠しきれないほどの混乱が場に満ちていることを、ヴィダは感じた。
 その拍子に気がつく。
 少しだけ、跳ね続けていた心臓が落ち着きを取り戻している。クリスが不気味なほどにいつもの調子だから……なのだろうか。
 というか。
 ヴィダは少々、脱力しながら考える。彼らはいったい、なんの話をしているのだろうか。
 この場に居合わせる全ての人々は、同じ思いと疑念を浮かべているだろうと、ヴィダは思う。
 窓辺に立つ、いつの間にか増えていた卒業生の一人が肩をすくめ、その隣に立つ人物に小突かれているのが見えた。あれだけ空気の張り詰めていた(それこそ摩擦が起きればそのかすかな火花で爆発しそうな)部屋だったのに、どこか緩んだ空気が漂い始めている。
 しかしそれは、手放しで喜べないゆるみだとヴィダは思う。
 たとえば、三拍子の明るく可愛らしい曲の中にひそんだ悪意や警告、同じ旋律を繰り返すだけのオルゴールにふいに混ざるノイズを耳にしたときのような。扱いを間違えれば、元の場所へ戻れない悪夢に迷い込んだような。
「君はここに至るまで、どんな物語を知り、どんな世界を描いてきたのかな。そこに正しさは宿らない。そこに偽りも宿らない。もし全ての過程と過程に至るまでの要素を知ることができたなら、やがて至る道の先をも容易に構築できると思わないのかい。世界樹に繁る葉には個人のはじまりから終わりまでが記録されているというけれど、それでも王冠は地に埋めるというのかな」
「飾ったっていいんじゃないですか? それだけ立派な樹なのであれば、そのふもとに王国が築かれることもあるでしょう。でも僕は興味ないです。片目も潰しませんし、首を吊ることも切ることもしませんよ。……まあ」
 そこでクリスは、ヴィダを見上げる。ぱちりと目があって、思わずまばたきをした。
「僕の雇用主は彼なので。彼が僕の首を切ったほうがいいというならそれに従います。あとは王冠を被せるなり、その麓に王国を広げるなり、なんだってすればいい」
「え、ちょっと」
 急に会話に巻き込まれ、動揺するヴィダを片手で制し、クリスは言葉を続ける。
「ただ彼は、それを望んでいないので。あなたが望む通りにはならないでしょう」
「そうなんだ。てっきり、里帰りにおみやげを持ってきてくれたのかなと思ったのだけれど」
「だったらとうに僕は焼け落ちて、あとには心臓も残っていなかったと思いますよ」
「へえ。じゃあこの子は、なにを望むというのかな」
 そこではじめて、サングラス向こうの瞳と明確に視線がかち合う。昏い、なんて昏い目だろうか。一点の光も見て取れない、暗澹とした闇がそこにあった。いや、瞳だけではない。彼自身を構築する要素の全てが闇であり、夜である。一見すると背の高い女性にも思えるほどに中性的な面立ちをしていて、ひとまとめに結ばれている髪もしなやかで美しさを覚えるのに、それ故か、ひどく、ひどくおそろしい。
「これまでと、これからを。一言でいえば、僕たちがあの町で生活することを許してもらいに来ました」
 日が上って沈むかのようのに、すとんと要望を言い切ったクリスに、もはやどういった感情でこの場に居合わせればいいのかもわからなくなってきたヴィダは視線を斜め上に向ける。言いづらいことをハッキリというなぁ。この人のこと、怖くないのか。
「君が生きていることは、うちにとって迷惑なことはわかる?」
「わかってますよ。あなた達にとって僕が生きているだけで、根を揺るがすほどのリスクだということは。そのうえで要望しています」
「ふうん。メリットがないことも理解している?」
「え。あなたまさか、メリットがないだなんて、本気でそう言ってます?」
 大袈裟なリアクションで、これは驚いたと言うクリスにレグナムが微かに微笑んだ。
「この子は優秀じゃないですか。それに組織に対して……いや、あなたに対して忠誠心も高い。もし彼が失われた場合、簡単に用意できる人材じゃない。あんな環境で、組織で一番の頭脳を持つ子が追いかけないと特定できないほどしっかりと逃走を果たし、逃亡先でこんな目立つ様相をしながらも僕と日常を送ることができていた。もし僕が死ねば、少なからず忠誠は落ちる。それはいずれミスを引き起こすでしょう。かといって、彼を殺すのはあまりにもったいない。記憶処理でもして、軍に売りつけるか、危険度の高い任務に向かわせたほうがまだいい。でも、わかるでしょう」
 そこでいったん、間を置く。クリスの話し方は独特の間を置くが、その空白が、観衆の耳を惹きつける。
「僕を生かし、あの町でこれまで通りの生活をさせる。その代わり、これまで以上の成果を求める。それが最大限、彼というリソースを扱う上での最適ではないですか?」
 ヴィダという人材の優秀さは、今ここにいる多くのメンバーは知っていた。シャルロットが認め、懐き、十を超えてから所属したというのにとんでもない早さと並々ならぬ努力を重ねてAに上り詰め、世界各地で功績を叩き出したのだ。それが、組織に対する恩義と彼の真面目な性格に起因することも知っている。
 卒業し、大人になったからこそ積まれた経験や恵まれた体躯を持つ彼らの殆どは、現役時代にBにも届いていない者が多い。この部屋の中で、Aの称号をとったことがあるものは僅かに二人だけ。生ける伝説を目の前に見据えながら、彼らが複数配備され、殺気を向け続けているのはそれほどまでにAの称号を持つものと、そんな彼を手なずけてみせたラッセルの後継者を警戒したからに他ならない。
 クリスの説得は、言葉こそ大仰に語ってみせているが一つも嘘や誇張がなく、組織に属し、組織の外側を知る彼らの胸にはよく響いていた。記憶というのは個を作る連続性の記録だ。クリスと出会ってから磨かれたであろう数ヶ月間と、それに至るまでに動機や経験を消してしまうのはたやすいが、抜けた穴は必ず違和感を伴う。その微かな穴に気を取られれば、普段なら起こさないミスを誘因し、致命的なことが発生すると、彼らは経験から知っていた。この場の誰もがクリスの言葉に耳を傾け、その言葉を受け入れ、吟味したうえで自らの判断でそれぞれが彼の言葉は正しいと判断した。
「人を用意しすぎるな、とシャルロットには言っておいたんだけどねえ。まあ、想定通りの結果に落ち着いたね」
 やれやれと首を振ると、先ほど肩をすくめていた青年を一人呼びつけ、なにごとかを指示する。その人は頷き、音も立てずに退室するとすぐにコーヒーカップを手に戻ってきた。
「ずいぶん喋っていたし、コーヒーでも飲んだら」
 黒い水面をクリスは一瞥し、にこりと微笑むとためらいなく口に運んだ。ヴィダが止める暇もなく、半分ほど飲み干すとソーサーにカップを戻す。
「ありがとうございます。喉渇いてたんです」
「そう」
 二人のやりとりに、肌の冷える思いをする。互いにもう一度カップに口をつけたあと、レグナムからクリスに話しかけた。
「いいよ。君たちは今まで通り、あそこで過ごすことを許してあげよう」
 え、とヴィダが声をあげる前に、ついに室内でおさえきれなかったどよめきが起きた。
「うるさいねえ君たち。もういいよ、帰っても。元から私は人数が多いことに反対していたのだし」
「そっちの話はあとでお説教してくださいよ。僕には関係ないんですから。条件は? どうせあるんでしょう」
 あまりに尊大な態度に、怒りの交じった視線が向けられるのも構わず、クリスはレグナムに言葉を促す。
「そうだね。まず、その子はこちらが要請した仕事は引き受けること。組織に所属していた頃と変わりなくね。ふだんはそこの、手間のかかる坊ちゃんの世話をしていて構わないよ」
「……はい、承知しました。あの、降格とか……」
「しないよ。変わりなく、といったでしょ。君を降格させたら、受けられる内容が変わるだろうに」
「それは……はい。承知しました。ありがとうございます」
 どうにかそれだけを口にし、頭を下げる。本当はもっと言いたいことがあった。報告したいこともあった。けれど、そのどれもが場違いで、今伝えることではない。何より、これまでの様々な感情がもつれてしまって、堰のようにヴィダの言葉を止めてしまう。
「で。そこの」
「なんですか。っていうか、子供にその圧向けるのやめてあげてくださいよ。ヴィーくんが喋りづらそうじゃないですか」
「いい。いいから、やめて」
 この二人の会話に巻き込まれたくないと、心底願ってヴィダはクリスの腕を強く引っ張る。
「ちょうど話し相手がほしかったところなんだ。君、引き受けてくれるね?」
「……それが条件ですか?」
 尋ねるクリスに、レグナムが頷く。クリスはうーんと悩んだあと、頷く。
「いいですよ。でも僕、連絡手段ないので固定電話の番号でもいいですか? なにか書くものあります?」
 その言葉に、レグナムは笑ってメモ用紙とペンを用意させ、クリスに渡す。
「じゃあ近々連絡するよ」
「日中は仕事しているとおもうんで、夜にしてください」
「気が向いたときにかけるよ」
「夜にしてくださいってば」
「じゃあこれ。私の番号だよ。君からかけてきていいからね」
「かけませんよ。ってかいりませんよ。組織の悪い人の電話番号なんて一個人が持ってられませんって」
「いいからいいから」
 電話番号の書かれたメモ帳を押しつけ合う二人を見ているうちに、気がつけば部屋中にひしめいていた気配が消えていた。扉の前に立つ卒業生も一人になり、部屋を出る頃にはレグナムの近くに立つ二人だけが残っていた。
「それじゃ、お邪魔しました」
 部屋から出た二人を、レグナムとその側近なのか、最後まで部屋に残っていた卒業生たちが部屋の入り口で見送りに来た。廊下はしん、と静まりかえっており、周囲に人の気配はない。
「帰りの車を用意するから、最初にいた部屋で待っているといいよ」
「はーい。じゃ、ヴィーくんいこっか」
「あ……えと、」
 クリスに促され、ヴィダはそこでしっかりとレグナムを見上げる。言わなくては。あの日のお礼を。これまでの感謝を。いやでも、それより、そもそも、彼は自分のことを覚えているのだろうか。
「あの、あの日の……っ」
 言葉にできたのはそこまでだった。後には続かず、悔しさで唇を強く噛む。レグナムはそんな彼を見詰め、言葉が出てこないことを認めると口を開く。
「立派に育ったね」
「……あ……」
 短いその一言で、全てが報われた想いになった。
「っ、ありがとう、ございました……!」
 なんとか言い切り、深く礼をするとレグナムは片手をあげ、先ほどの部屋へ戻っていった。卒業生の二人も後に続き、廊下にはクリスとヴィダだけが残される。
 扉が閉まったあとも、しばらく礼をしたまま動けないヴィダを、クリスは黙って待っていた。
 するとそこに、場違いな鼻歌が響く。
「ふんふーん。ヴィーくーん、お迎えにき……わああああクリスさん!? なんで? なんで生きてるんですか!?」
 シャルロットだった。
 彼は話し合いが終わったという報告を受け、ヴィダを迎えにやってきたのだが、そこにのほほんと立つクリスを見て幽霊でもみたのかと絶叫する。
「シャル、なにその物言い。まるで話し合いに失敗するとでも思ってたみたいな」
「だ、だってえ……ボスと会って生きて出てきた人なんて初めてで……。しかもなんか、けろっとしてるし……」
 怯えた表情でクリスを見るシャルロットに、確かにとヴィダもクリスを見る。
「え?」
「あんた、怖くなかったの?」
「えー……めっちゃ怖かったよー。あの人なに話してるのか全然わからなかったし、圧もすごかったし……」
 そう言って肩を落とすクリスを、シャルロットはじっと見る。そして、いつだかのレグナムの言葉を思い出した。『あれが愉快に見ていられるのは、何の色にも染まっていない頃だけ』
 もしもこの人が、組織の色をその水に落とし、染め上げたなら。その枝にはどんな実がなり、中にはどんなものが詰まるのだろう。伸びた先に広がる未来は、どんなものになってしまうのだろう。
 そんなことを考えて、かぶりを振る。
 やめとこう。変なことを考えて、この人が学習しても困ることになりそうだと思考を止め、かわりに唇を尖らせて抗議する。
「もー……全然予想してなかったですよ、こんな結果。せっかく今日はヴィーくんとお泊まりできるかなって思ってたのに……」
「その場合、オレはシャルのこと許してないとおもう」
「えー! そんなー!」
「ま、まあまあ。せっかくだし、シャルくんも一緒に帰らない?」
「むー……。じゃあ、行きます……。バートもあっちで待機してますし」
 シャルロットのその言葉を聞いて、ヴィダはやはりかとため息を吐く。元から望み薄の会談だったのは、シャルロットの様子を見て明らかだ。そして失敗した場合は、あの家は処分することになる。その際の実行犯がバートだったのだろう。
「じゃ、先に電話かけとく。あいつ一人だと寝てるかもだし」
 電話をかけると、バートはすぐに出た。そして会談がうまくいき、お咎めなしになったことを伝えると、電話の向こうから廊下に響くほどの大声ではしゃいで喜んだ。
「帰ったらお祝いだってさ」
 通話を切ったヴィダに、クリスが微笑み、シャルロットはどこか複雑そうな表情をしながらも「ヴィーくんがお咎めなしなのは、よかった」と呟いた。

 そうして一向は、赤いペンキの塗られた扉の前で車から降り、夜通しパーティを開く。
 次の日からはいつも通り。
 朝を迎え、朝食の仕込みをすると表に出て、家の前をほうきで掃く。そうしていると隣で花屋を営むマリーが出てきて、同じように掃除をはじめるので朝の挨拶を交わす。掃除が終わると家に戻り、窓を開けてから朝食のベーコンを焼くためにフライパンを火にかける。
「ヴィーくん、おはよう」
「おはよ」
 新しい朝が始まり、今日もこれまでのこれからが続いていく。