シャルロットの襲撃から、二ヶ月を迎える頃。
ある日の早朝に、ヴィダとクリスは小旅行用の荷物を携えて玄関前に立っていた。
「忘れ物、ない?」
「ないよー。大丈夫」
朝の凜とした風を頬に受けながら、最後にもう一度、赤いペンキで塗られた扉をがちゃがちゃと引っ張る。開く様子はなく、戸締まりはしっかりと行えていることを確認すると、クリスはヴィダに視線を向ける。そしてヴィダは彼に頷いて返す。しばらくは此処に戻ってこれない。否。もう、戻ってこれないかもしれない。ドアノブに留まろうとする指を離し、ポケットの奥底へぎゅっと押し込む。
「じゃ、ヴィーくんいこっか」
「ん」
二人が家から離れ、駅の方へと歩きはじめてからきっかり五分。音もなく二人の近くに寄った車が寄ってくる。半歩先に止まった車の窓が開くと、中からシャルロットが顔を出した。
「乗ってください」
後部座席の扉が開くと、中にはあきらかにヴィダより年上で、だいたいクリスと同じぐらいであろう年齢の人物が座っていて、二人を中へと招いた。
(卒業生だ……)
小さく息を飲むヴィダだが、クリスは構わず、遠慮無く荷物をどさりと足下に入れ、「お邪魔しまーす」と自分もさっさか座ってしまう。
「ほら、ヴィーくんも」
「……ん」
促され、車内に乗り込む。扉はすぐに閉じ、施錠された音が響くと同時に、車は大通りを進んでいく。
運転席にいる人物も、ヴィダは見たことがない。つまり、車内には組織の卒業生が二人にシャルロットが一人。人数でいえば大したことのない数だが、あまりに分が悪い。
ヴィダらの組織内で働く大人は極端に少なく、各支部の長付きで二名、一部の研究機関がある支部以外には多くても五名ほどしかいない。優秀すぎるが故に買い手がつかず、かといって他の団体に回すことも出来ないような人物だけが大人になっても組織に留まり、そんな彼らは卒業生と呼ばれているのだ。
クリスは何も気付いていないのか、いつもの様にのほほんとしているが、彼が卒業生側に座っているならば尚のこと、途中で逃げ出すのは悪手だろう。
「さて、これから向かう場所なんですけど」
最初の信号を待っている間に、シャルロットが声をかけてきた。
「当たり前ですけど一般には隠している場所なので、クリスさんには目隠ししてもらいますね。隣にいるお兄さんから受け取ってください」
「うん、わかった。あ、どうも。……えーっと、これでいいかな? ちゃんと付けられてます?」
律儀なことに、卒業生に向かって目元が覆えているか確認している。話しかけられた彼も些か困惑した様子で、苦笑いを浮かべながらシャルロットに合図する。
「ばっちりみたいですよ」
「よかった。もしずれてたら教えてくださいね。ヴィーくんも、ずれたら直してほしいな」
「いいけど……」
まるで緊張感のないクリスの姿に、ヴィダも少しだけ肩から力が抜けた。
「ここから長いですけど、ボクが良いって言うまで目隠しとっちゃダメですからね」
「わかった。……ところで、途中ご飯やお手洗いはどうしたらいいかな」
続く質問に、シャルロットも肩を竦める。
「……都度、指示します」
これから向かうのは、ヴィダやシャルロットが所属している組織のアジト。彼らの命令権を握る人物との面会をクリスが要望したことで、二人はシャルロットに道案内を受けることになった。
向かう先はわかっているが、向かう場所はヴィダもわかっていない。
組織のアジトは世界各所にあるので、これから向かう場所がこの国に一番近い支部なのか、それともかつてヴィダが所属していた支部なのかがわからない。シャルロットがヴィダには目隠しをしなくてもよいと言っているので、知っている場所の可能性は高いが……果たしてどこに連れていくつもりなのだろうか。
(どこだとしても、受ける制裁に変わりはないか)
ヴィダは意識的に長く息を吐くように努める。たとえ向かう先の長が知り合いだとしても、知らない場所だったとしても、クリスや自分に及ぶ害に変わりはないのだ。
「……?」
ふと、あたたかなクリスの手が自らの手に重なる。そのときにはじめて、自分の手が氷のように冷え切っていることに気がついた。
視界を塞いだクリスは、隣り合う腕の筋肉が強ばっていることに気がついたのだろうか。見えないなりに気遣ってくれる彼の優しさに、緊張がさらに解けていく。思えば車に乗ってからの彼の言動も、率先して車内の緊張をほどこうとしてくれたようにも見える。
今回の件は、クリスへはじめて、ヴィダが依頼した仕事だ。その成果によっては、これが彼との最後の交流になる。だとしても後悔はないと、ヴィダはまっすぐに前を向き直す。
なぜならこれから至る結末は、クリスを守るばかりではなく、自らが彼に頼った結果なのだから。そうするに足る信頼を彼が示してみせたから、ヴィダもクリスへ依頼をしたのだ。その選択を、決して後悔しない。
*
さて、如何にしてクリスはヴィダの信頼を得たのであろうか。しばし振り返ってみようと思う。
時は遡り、二ヶ月前。
シャルロットの件が片付いてしばらく。クリスの営むなんでも屋は大いに賑わっていた。
午後に来客があると聞いていたヴィダは、テーブルクロスを直したりほこりがないか確認していた。このところ、連日来客があるので気が抜けない。なんだって急に忙しくなったのやら。そう、ぶつくさ脳内で呟いていると、急な訪問者がやってきた。
「ここが噂のなんでも屋ですか。なんでも浮気調査に迷子の犬探し、冷蔵庫の移動から学校の七不思議の調査まで、なんでもござれだとか」
かららんとベルを鳴らしてやってくるなり、キャスケット帽を目深に被った青年(年の頃は大学生くらいだろうか)が意味深げに語ってくる。なんだなんだうるさいなと、出迎えたヴィダは大いに疑心に満たされた。話の長いやつはいいやつなことも多いが、いいとか悪いはさておきだいたい怪しいやつだ。クリスのように。
「訳知り顔で急になんですか。冷やかしなら帰ってもらえます?」
「おおっと、これは失礼。わたくし、こういったものです」
「……ミステリー調査?」
名刺を受け取り、ますます眉を寄せるヴィダに青年は爽やかに頷く。
「はい! この街や周辺のミステリーを集めて回っているんですよ」
「暇なんですか」
「おお、辛辣ですねえ!」
ぱちん、と指を鳴らしてちゃめっ気たっぷりに話す彼の胡散臭さに耐えきれなくなったヴィダは、今しがた青年が入ってきた扉のほうへ彼を押しやり、帰ってくれと伝える。このところ、ただでさえ繁忙なのだ。冷やかしは困る。
「ちょ、ちょっと。ちゃんと話を聞いてくださいよ」
「あいにくこっちは暇じゃないんで」
ここに居を構えてからというもの、つい最近まではこんなに賑わっていなかった。閑古鳥の鳴く日が多く、コーヒーを手にしたクリスが暇だねえと窓を眺めている時間のほうが多かった。(なんならその時間を二人で過ごすことが好きだった)だというのに、ここ暫くは彼に仕事を依頼したいとやってくる人がおおいに増えた。
よこしまな店と勘違いしてやってくる客やひやかしも増えたが、それは先日、シャルロットとバートが店の目の前で取っ組み合いの喧嘩をしたからだと容易に想像がつく。実際、後日警察もやってきて大変だったのだ。やってきた警官へ、ここはいかがわしい店ではないとクリスが説明しても親に許可を得ているのかと騒ぐ警官が実に鬱陶しかった。ぎっと睨みつけていた自分と、クリスを悪者だと決めつけてかかる警官に睨まれながらも気がつけば彼は警官を説得し、追い返してみせた。
あれには感心したものだ。あの喋り始めると面倒なことで右に出るものはいないシャルロットを説得したことと言い、どうもクリスには交渉や説得といったものに天性の才と技量があるのだろう。
しかし、自分が納得したからといってクリスの交渉術が街中で話題になるはずもない。
メイド少年目当ての厄介事であればまだ理由もつくだろうに、そうではなく純粋な依頼客が増えたのはいったい何故なのだろうと、ヴィダは疑問に思っていた。
「あのさ」
なので、この青年に聞いてみることにした。
「あんた、本当に依頼人?」
「そうですよお!」
「なんでうちに来たの。広告とか出してないのに」
広告どころか、目立った看板だって出していない。通りに面した窓に、文庫本くらいの大きさで『お困り事引き受けます』とだけ出しているだけだ。それで客なんてこないだろうとヴィダは当初から思っていたが、厄介事が増えても困るのでそれでよしとしていた。
「あれ、ご存じない? 近ごろ話題ですよ、ここ」
「心当たりないんだけど」
「ええー、そうなんだ。頼むと小さなことから相談に乗ってくれて、色々解決してくれるんだって学校や街中で話題になっているんですよ」
「あー……」
学校、と聞いて思い当たる節がある。少し前にクリスと、小学生の間ではやっている噂話の真偽を確かめてほしいと依頼を受けたことがあった。
その依頼は偶然から生まれた。
なんでも屋の数少ない常連であった、赤い帽子にサンタクロースのような髭を蓄えたおじいさん。彼とは美術館のカフェで出会い、おじいさんが趣味で作った謎を解いてくれるものがいないとの嘆きにクリスが応えたことで仲良くなった。以来、度々新しい謎を持ち込んではクリスに謎解きを依頼してくれるようになった。
その彼が、孫を連れてやってきた日があった。
「ほら、クリスさんとヴィダくんだよ。挨拶をしなさい」
「こ……こんにちは……」
おじいさんの後ろに隠れ、小さな声で挨拶をする男の子を見て、ヴィダはずいぶん引っ込み思案なんだなと感想をもった。この年頃は、やたら元気かやたら恥ずかしがりやかに分かれる。この子は後者なのだろう、と考えていると、クリスが屈んで、子供と目線を合わせてから微笑んだ。
「こんにちは」
「……にちは……」
ますます身を縮こまらせてしまう子供に、おじいさんもおやおやと眉を上げて困った様子を浮かべる。
「普段はこんなんじゃないんだが……恥ずかしくなっちゃったのかね。この人はクリスさん。探偵さんだよ。じいじの謎かけを解いてくれるんだ」
「あはは。とっても楽しいですよ」
探偵、の言葉に子供が目線を上げる。
先ほどまでの物怖じした様子は消え去り、じいっと純粋にクリスへまなざしを向けている子供の姿を見たクリスは、そうだ、となにごとかを小さなメッセージカードに書き込み、子供に差し出した。
「はい、どうぞ」
「?なんでもや。おこまりごとは、おまかせ」
「うん。僕とヴィーくんで、困ったことがあればなんでも聞くよ。解決できるかはわからないけど」
子供が読み上げた文字が、そこには大きく書かれていた。他には電話番号も住所もなく、店の名前もない。だが、子供にとってはまばゆい物に見えたようで、大切そうにぎゅっと握りしめる。
とはいっても、翌日学校で話題になる程度で、それ以上はなにも起こらないだろうなとヴィダは思っていた。ちらしの裏に書いた肩たたき券のようなもので、一週間もせずに忘れられるだろうと。
しかしその翌日、ヴィダの予想に反して件の子供は一人でやってきた。
「こんにちは……あの、依頼。したくて」
昨日よりはしっかりとした言葉で、彼は小学校で出回っている怪人について調査してほしいと依頼する。
「じいじも先生も信じてくれないんだけど……でも絶対、いるんだ。探偵なら、調べてくれる?」
「うん、任せて」
「え、ちょ……本当に?」
一銭にもならないその依頼を、クリスは二つ返事で引き受けてしまい、言うなりさっそく調査に向かおうと席を立つ。看板をクローズにひっくり返すと、その子の言う学校へと三人で向かうことになった。
「二人とも、これどうぞ」
「ありがと」
「あ、ありがとうございます……」
学校へ向かう道中、クリスはヴィダとその子にレモンソーダを買い与え、しばし二人で飲みながら無言で歩く。
「……その怪人は見えないんだ」
甘酸っぱい飲み物は子供の口をすべらかにする効果があったようで、ぽつぽつとその子は怪人について話し出す。
「見えないの?」
「うん。だから誰も見たことがない。でもみんなは、きっとスレンダーマンだって言ってる」
「スレンダーマン?」
蜘蛛の糸を操るヒーローを思い浮かべていそうなクリスに、ヴィダが横から口を挟む。
「スレンダーマンは、すごく背が高いっていわれてる。やたら細くて、子供をさらうんだって」
「そうなんだ!」
ヴィダの言葉に、突如声を荒げて子供が続ける。
「一人になったら、さらわれるんだってみんなも言ってる。スレンダーマンを見ちゃったから、ジョンは学校を休んでるんだって。エミリーも鼻血が止まらなくなっちゃったんだって、みんなみんな言ってる。でも誰も信じてくれないんだ……!」
興奮した様子で話す子供の言葉を聞くうちに、かえって冷めた気持ちになっていくヴィダ。そんな噂話、子供が集まればいくらだって立ち上る。火があれば立ち上る煙のように、子供が集まれば怪異が生まれる。ヴィダらの組織だって、夜な夜な眠らない子を見張り、捕まえては逆さ吊りにする怪異がいるし、寝る前にやたら喉を乾かせておもらしを促す怪異がいる。前者は子供を戒める怪異で、後者は子供の盾になる怪異だ。怪異が起こる理由がわかればくだらないことこの上ないと、ストローをがじがじと囓りながらヴィダは思う。
「きみの学校のスレンダーマンは、見えないんだっけ。でも、みんながスレンダーマンがいるっていうんだよね。それはどんな時?」
クリスが口にした疑問に、ヴィダも「あれ」と気がつく。一般的に語られるスレンダーマンは、その名の通りの見た目をしている。だというのに見えない、というのはどういうことなのか。
「……音がするんだ」
言いながら思い出したのか、子供はぶるりと肩を震わせながら話す。
「大人がいなくて、子供しかいないとき。そんなとこに人なんか入れない、狭い場所から音がしてさ。じっと見られてるような感じがする。そんな場所に荷物を置いておくと、たまに、絶対に持ってきたはずの教科書やタオルがなくなることがあって。でも、大人を連れてくるとそこにはもういないんだ。からかうんじゃないって怒られちゃうから、言いたくなくなっちゃって。……でも、だんだん、学校に来ない子が増えてきて。長く休んでるなって思ってたら引っ越しちゃう子が出てきて、みんなはスレンダーマンにさらわれちゃったんだって言うようになって……」
そういって、子供はすっかり肩を落として落ち込んでしまった。
そんな子供の背を支えるようにクリスはぽんと叩き、明るく「じゃあ探偵の出番だね」と言ってみせる。すると子供の顔はぱあっと明るく輝き、力強く「うん!」と頷いた。最初に探偵、と聞いたときのようにきらきらとしたまなざしだ。
どうやら、子供らからすると職業探偵はヒーローのようなものらしい。ヴィダも憧れる気持ちがちょっとわかる。探偵って格好良いよな。なにしているのかよくわからないあたりが特に。まあ、自分は暗殺者だし、もっと格好良いけど、と一人で得意げになって歩いているヴィダに、クリスが「ヴィーくん、ちょっと」と声をかけてきた。
「ヴィーくんには申し訳ないけど、僕が合図したら警察を呼んでくれる?」
「え。嫌なんだけど」
露骨に嫌だという顔を浮かべるヴィダに、そこをなんとか! とクリスが懇願する。「お願い~!」と手を合わせて頭を下げてくるものだから、仕方がなしに承諾した。
ヴィダは警察が嫌いだ。というより、世間一般にすべからく子供が頼るべしとされているものが、おしなべて嫌いだ。
それに、この地域でこういった時に駆けつけてくるのは十中八九アノ警官だろう。シャルロットの騒動後に乗り込んできた、正義感溢れる若い警官。終始クリスのことを疑ってかかり、ヴィダに対して可哀想じゃないかと何度も何度も繰り返したあの警官。ああ思い返すだけでむかむかする。そんなヴィダの警察嫌いを知っていてもクリスがわざわざ、ヴィダに頼んでくるということは……そんな事件性の高いことが起こると考えているのだろうか。
「着いたよ」
灰色の石づくりの学校校舎。同じ敷地内には教会もあり、夕方である今は、牧師の格好をした男性がほうきを手に外の落ち葉を掃いていた。
「あれ。男性の牧師さんなんだ」
「なに言ってんの。牧師さんは男性でしょ」
「いや……ほら、最近近くに出来た教会はみんな女性だったからさ。久しぶりに男性の牧師さん見たなぁって」
「教義の違いでしょ。ほら、あの子いっちゃったよ」
クリスが気を取られている間に、子供はあっという間に校舎のほうへ行ってしまっていた。
このままでは見失ってしまうとクリスの手を引くと、牧師が二人に向かって会釈をした。それに返しながら、思えば部外者は勝手に入っちゃいけないんじゃないかと今更な考えがよぎる。ヴィダが通報するより前に、クリスが通報されたらどうしようと思いながら二人で子供を追いかけていくと、彼は校舎入り口の受付で、何事かを話していた。
「ではお連れの方の名前と連絡先をお願いします」
「あ、はい」
名簿にクリスが名前を書くと、子供が「貸して」と名簿を奪い、そこに自分の姓と連絡先を続けて記載する。今の時間帯を記載してからクリスに返す姿は、このやりとりに慣れているのだろうことが容易に想像ついた。
「よくじいちゃんが来るからさ。なんかあったらじいちゃんに連絡がいくから大丈夫」
得意そうに言う子供を見て、ヴィダはそれとなく受付をしている女性の様子を伺う。学校というのは簡単に部外者を受け入れてはいけない場所だと思うが、それほどあのおじいさんが信頼されているのか、この学校のセキュリティが甘いのか。
「はいバッジ。これ付けたら中歩けるから」
「うん、ありがとう。じゃあ、スレンダーマンがいるっていう場所、全部連れていってくれる?」
「うん!」
子供を先頭に、教室、美術室に映画やビデオ作品を鑑賞する視聴覚室を回る。その中でも特に出没が多いと子供がいうのが、放課後の教室だという。
「今はいる?」
「……うーん、いないや。みんな帰っちゃったっぽいし……」
残念そうにぼやく子供に、クリスは教室中を見渡し、ロッカーや窓の外を見て回る。
「ヴィーくん、この子と此処にいてくれる?」
「なんで」
「思ったより部屋数があったからさ、もう一周してこようとおもって。なにかあったら合図するから、すぐ警察呼んでね」
「……うん」
ヴィダはちらりと横の子供を見る。正直な話、この子を守るよりクリスを守るべきであるし、子供と二人きりにされても困る。子供の方もよくわかっていない顔でヴィダを見上げているし、尚のこと困った。
「早く戻ってきて」
「うん! いってきまーす」
明るく手を振り、さっそうと廊下に消えていくクリス。取り残された二人は、所在なく互いに距離をとり、机に腰掛ける。
「あのさ、お兄ちゃん……でいいの?」
「は?」
「お洋服、女子が着るやつじゃん」
急になにかと思えば。ヴィダはスカートの端を少しつまみ、ひらひらと振る。
「スカートってだけだよ。女の場合は切り替えが違う」
「き、きりかえ?」
「腰の位置が違うから。これは男用」
「ええ……そうなの?」
「そ」
素っ気なく返しつつ、この暇な時間をどう持て余したものかと考えていると、その背に視線を感じた。
「…………」
目の前の子供は気がついていない。
ヴィダの背後、大きな棚が並ぶ壁のほうからじっと視線を感じる。その視線は鋭く、絡むようなものでずいぶんと熱心にこっちを見ているように思う。
「スカートって便利だよ。風が通るし、何よりズボンと違って股上で押さえられてないから動きやすい」
「ええー?」
「試しにキックしてみなよ。どこまで足あがる?」
「こ、こう?」
えい、と何度か空中にケリを繰り出す子供に、ヴィダは自信たっぷりに笑うと「見てな」と高く足を上げ、一度ケリをするとそのままぴたりと動きを止める。
「ほら、ここまで上がるんだよ」
「す、すげー!?」
「足が上がれば、踵から頭を叩くことも出来る。こうやって……こう」
「おお!」
「脳を揺らせば相手を倒せる。だから、足まわりの制限は少ないほうがいいでしょ」
もう一度高く足を上げ、子供の目の前までゆっくりと下ろして再びぴたりと止める。年頃の子供はすごいすごいとはしゃぎ、自分もと足を上げる。
そこでガタン、と音がした。
背後の棚の中から、真っ黒な出で立ちの男が出てきて、二人に向けて荒い息を吐く。その目は真っ赤に血走っており、正常な思考はできていないように見えた。
突如、その男の後ろからクリスが現れ相手にタックルを仕掛け、組み伏せる。
「ヴィーくん、今! 電話!」
駆け寄ろうとしたヴィダを制止したクリスの意図を汲み、しっかりと男の衣服を掴むクリスが振りほどかれる前にと急いで警察へ連絡をする。
案の定出たのは例の警官だったが、襲われていると声をあげ、現在地を伝えた瞬間すぐに向かうと回答があった。電話を切るなりクリスだけでは逃しかねないと、ヴィダももがく男を押さえつけ、それでも暴れるので子供に見えないように計らいながら相手の意識を奪う。
昏倒する際に掴まれた服の裾が伸びたが、あえてそのままで警察の到着を待った。
程なくしてけたたましいサイレンの音と、たくさんの教師を連れた例の警官が教室に飛び込んできた。
「急にそこの棚から人が出て来て。オレたちに掴みかかってきたんです。クリスが助けてくれました」
よほどショックだったのか、泣きじゃくってしゃべれないでいる子供の代わりにヴィダがそう証言したことで、全身を真っ黒な伸縮性のボディスーツで覆っていた犯人はその場で警察に身柄を拘束されていった。
――確かに、あれは大捕物だったとはおもう。
だとしても、宣伝効果があったとは思えない。後日、お手柄! と新聞の一角で紹介されてはいたけれど、職業探偵の男性、変質者を取り押さえるとしか書かれていないのだ。それはヴィダとクリスの二人で、顔も名前も掲載しないよう強く新聞社に要請を出し、念のため隠し撮りをされていないかヴィダが念入りに確かめた。なので、それだけの情報から此処が明らかになるとは思えないのだ。
「あれ以来、学校ではヒーロー探偵とメイド助手としてお二人は有名なんですよ。で、あの子のおじいさんが、実はあの新聞の探偵はどこどこにあるなんでも屋で~、優秀で~とあちこちで自慢したそうでして。そっからたちまち話が広がり、自分も頼んだけど人当たりがよかった、優秀だったともう評価はうなぎのぼり。依頼したことがある人にはどこにあるんだと質問が殺到! かくして自分も、ここに辿り着いたわけです」
ウインクを一つし、青年が語り終える。
なるほど、元を辿るとあのおじいさんだったのかと肩を落とす。自分の孫を変質者から救い、その孫からヒーローだったと自慢され。普段から自分がお世話になっている探偵は、知る人ぞ知る名探偵だぞとここぞとばかりに喧伝してくれたのだろう。
そのうえ、表看板もわかりづらく、新聞という絶好の喧伝機会も棒に振ったことで、この匿名性がかえってブランド力を高めることに繋がったのだろう。さながら一見さんお断りの会員制レストランのようなものだ。
「それにお二人は美形ですしねえ。メイド服着てる美少年と、そんな美少年を携えて歩くこれまた美形の男性。話題作りには事欠かないでしょう」
「はあ……」
もういい、疲れたと適当に相づちを打つヴィダの耳に、上階からクリスが降りてくる音が届く。
「あれ! もういらしてたんですか。早いですね」
「え、本当に客なのこの人」
ドン引きといった様子のヴィダに、ぱっと笑って青年は返す。歓迎されていない場所に居座れるというのは一つの特技だろう。
「そうですよーお客さんなんです。今回はお二人に、郊外にある、とある幽霊屋敷の調査を依頼したいんです」
「幽霊屋敷?」
さっそく話を広げようとするクリスの服を引っ張り、奥の応接室のほうを示す。話の長い二人が立ち話を始めるだなんてとんでもない。
「なんでもそこは、先代の奥様がバンシーとなって、今もさまよっていると噂でしてね。相続人の息子さんもいい年なんですが、片付けられないままでいる状況が辛いんだそうです」
改めて、依頼人として席につく青年。名をルイスと名乗った。普段は新聞社で働いているそうだ。なるほどだからこそあれだけ厚かましくいられるのかとも思えたが、どうやら彼は記者ではなく、紙面のデザインや色味の調整を生業としているそうだ。なら記者のように行っているミステリー調査は彼にとってなんなのかというと、仕事より大切な趣味なのだとか。たまに自身で調査したオカルト話を専門誌に投稿しており、いずれはそちらで生計を立てていきたいのだそう。
「で、いろんな業者に清掃を頼んだんですが片付けをはじめると、必ず不可思議な現象に見舞われ、みなキャンセル料を払ってでも依頼を断ってしまうんだそうです」
「それで、どうしてルイスさんが?」
「いやあ、最初は取材でお話を聞いてたんですがね。話すうちにどうにも可哀想になってしまって。自分でも行ってはみたんですが何もわからず。噂の探偵さんなら、この心霊現象をどうにかできないかなーと思いまして」
それを聞いたクリスは一拍置いてから、ルイスに質問を続ける。
「調査、とのことですが清掃をすればいいんですか? それとも、どうして心霊現象が起こるのか調査すればよいですか? さすがに幽霊退治は心得がないので、難しいです。片付けにしても、お恥ずかしい話、僕は片付けが得意でないもので。この子が主に行うことになります。廃墟ですと危険なものも多いので、清掃のご要望であればお引き受け致しかねます」
ルイスの話は長く、抽象的だ。よくよく聞いているとあれもしてほしい、これもしてほしい。ついでにこれもわかると嬉しい、のように、話せば話すほど要求が肥大していっている。それに対してクリスは、自分たちに何を求めているのか、イコールで結べるように示してほしいと伝えつつ、先に出来ないことを明確に伝える。彼の出で立ちはいかにも育ちがよく、傍らにはメイド服を着た少年。それだけで、清掃、という要望に応えられないと示すには十分である。
棚を運ぶのを手伝ってほしいだとか、荷下ろしを手伝ってほしいぐらいの内容であればクリスは引き受けただろう。簡易な清掃であればヴィダに相談したうえでやはり引き受けただろう。しかし、場所が廃墟であれば清掃の危険度は跳ねあがる。
なんだ、一応線引きはしているのかとヴィダはクリスの話を聞きながら、内心で感心していた。人当たりよく、断りを入れることもできない性格故になんでも引き受けているのだと思っていた。
「おっと失礼しました。そうですね、一番は心霊現象が起きなくなることです。現象が収まれば清掃出来るので、そこは本人がどうにかするでしょう。ただ、仰るとおり一介の探偵が幽霊退治できるってのも都合がよすぎますね。映画じゃあるまいし。わかりました、何故心霊現象が起きているのか。その調査をお願いします」
「原因の特定ですね」
「はい。実際に訪問して、筋道の通った推察をお願いします」
両手を合わせ、にっこりと笑うルイスにクリスは頷き、調査日時の調整と何にどのぐらいの費用がかかるのか説明を行う。具体的な見積もりは後日、調査開始前に説明し、改めて本契約となる。
意気揚々と依頼人が帰っていくのを見送ると、クリスが大きく伸びをして息を吐いた。
「幽霊屋敷かー」
「信じてるの? 幽霊」
「うーん、よく噂は聞いたよ。悪いことすると森から黒い怪物がやってきて食べられるーとか。地下には逃げ延びた殺人鬼がいて、夜中に出歩くと殺されるとか。成績が悪いと取り替えっ子に出されるっていうのもテッパンだったなぁ」
「……」
つらつらと並べ立てられるクリスの言葉を聞きながら、ヴィダは背筋に冷たいものが流れるのを感じる。何も知らないで聞けば、それは子供を躾けるためのお伽話だ。だが、クリスの過ごしていたあの屋敷では実際に、地下にはクリスとよく似た相貌をした子供達がいた。他の部屋には拷問器具の類いも見られ、あれが悪趣味な観賞用なのか、それとも何某かの用途に用いられていたのかはわからない。
そもそも、クリス自身があんな陰惨な地下の状況を知っていたのかについては、ヴィダには判断がつかない。どう返したものか悩んでいる間にも、クリスの言葉は続く。
「ほら、いかにもって出で立ちの家だったでしょう? 怖い話や噂はいくらでもあったんだよね」
「確かにね。ゴーストでも怪物でも、なんでも出そうな見た目だったよ」
「でしょう? 小さい頃は怖かったなあ」
今話している彼の様子をつぶさに観察してみるも、子供の頃の思い出をただ語っているだけに見える。もし彼が地下を知っているのだとしたら……。あまつさえ目の前でそうなる未来を見せられ、聞かされていたのだとしたら、こんな他人事のように話せるものだろうか。少なくとも組織に来る前の自分には無理だと、ヴィダは思う。
「ヴィーくんもあった? 悪いことするとバーバ・ヤーガがやってくるよ、みたいな」
「バーバヤーガ?」
「一本足の家に住む、人食い魔女のおばあさんだよ。子供をさらって食べちゃうんだって」
「あんたん家……森? に、それが住んでたの?」
月明かりも差し込まないような、鬱蒼とした森を思い出しながらヴィダが尋ねると、クリスが首をひねる。
「そういや僕の家のまわりってなにが住んでたんだろう。黒い怪物、人食い魔女、子供を攫うオバケ……色々と聞いてはいたけど」
「全部別々に住んでいるんだとしたら、とんだモンスターハウスだね」
「あはは……。でも単純に危ない森だったと思うよ。夕食にその日狩猟したお肉が並ぶことがあったから、狩る人がいたんだと思うんだよね」
「あー……そうなんだ」
屋敷の外側は、あの日ヴィダの担当範囲外だった。だとしても本当に猟師がいたのであれば、狙撃される可能性を考慮して事前に情報が入っていただろう。だが、相手は世界に名高い金持ちだ。どんな職種の人間が、どんな用途で雇用され、どんな肩書きを名乗って働いていても不思議はない。現にヴィダだって、今の職業は家事手伝い兼探偵助手、本業は暗殺者なのだし。
「幽霊なんて、どうせ聞き間違いや見間違いでしょ。こないだのスレンダーマンだって変態のおじさんだったし」
「だとしても怖いし、迷惑なのは変わらないよ。……何よりうちを頼ってくれたんだから、出来ることはやりたいな」
ね、と爽やかな笑顔を向けるクリスに、ヴィダはそれ以上の言葉を投げかけるのをやめて「コーヒーいれる」とキッチンへ向かった。
ペーパーフィルターからぽとぽとと落ちる、真っ黒いコーヒーの液面を見ながらヴィダは考える。幽霊屋敷で起きている現象とはなんなのかと。幽霊は実在しない。実在するのだとすれば、恐怖や未知からくる脳の空白に、自在に形を変えてすぽりとハマったものがそれだろう。
となると、問題の起きている屋敷というのは相当古いもので、異音や床や窓が外れやすいような状態なのではないだろうか。
そんな場所に、クリスを……?
ヴィダの脳裏に、足下を踏み抜いて階下へ落下するクリスが浮かぶ。そのときちょうど手元が狂い、せっかく作ったコーヒー粉の土手が崩れてしまった。ああ、まずい。これはまずい。
(必要なもの、確認しないと)
バートやシャルロットに殺されるでもなく、他勢力に殺されるもなく。不意の事故で彼を傷つけたり失うのはいくらなんでも嫌すぎる。
ぞっとした心地で考え事をしながら作ったコーヒーは、首が締まったような感覚を味わうほど苦かった。
「ついた~!」
「……遠かった……」
家から四時間かけてルイスの車で運ばれた先は、郊外の丘に一軒だけ佇む屋敷であった。道路の途中からすれ違う車もなくなり、加速に加速を続けたというのに四時間だ。じゃっかんの吐き気を催しながら車から降りた二人は、目の前に佇む屋敷を見上げる。ルイスは着いてきていない。彼は二時間かけて最寄りの街に戻り、差し入れを仕入れて戻ってくると言って、二人を置いてさっさと去っていった。もし彼が戻ってこないようなことがあれば、シャルロットに頭を下げてでも迎えに来てもらうか、街の近くまで自分が運転するしかないかとヴィダは考える。
「お屋敷、思ったより綺麗だね」
クリスの言葉に、ヴィダも頷く。
玄関扉は施錠されておらず、開放した状態で固定すると、薄暗いホールに光が差し込む。
しん、と音がしそうな静けさ。その中を覗き込み、目を細める。
玄関の中はホールになっており、そのまま二階に続く階段と、左右に分かれる廊下になっていた。
「部分的に人が立ち入った痕があるから、清掃業者を呼んだって言ってたことは本当なんだろうね」
でも、とそこで外に目を向ける。クリスの視線につられてヴィダも外を見る。
すでにルイスの車はなく、道路以外はどこまでも草原が広がっている。その道路も下草に浸食されつつあり、草原の中にはうち捨てられたトラックや車がある。いずれは舗装された道そのものが無くなり、すべて草に覆い隠されてしまいそうだ。
「その辺りに転がってる中で、新しめのやつは業者の車っぽいけど。だとしたら依頼主の敷地に置いてくってのもおかしいと思う」
ぱっと見た限り、燃料さえ残っていればどうにか動かせそうな車が何台かある。脱出手段があるのは嬉しい話だが、いくら郊外とはいえ金属の塊だなんて魅力的な資源がここまで何台も手つかずで野ざらしになっているというのは、それはそれで不気味なものを感じる。
「うーん、そうだよね……」
クリスも唸るように同意しつつ、今度は屋敷の中へ視線を向ける。
中はあちこちに蜘蛛の巣が張り、人が歩いたと思わしき箇所以外は目に見えるほどホコリが積もっていた。触ればきっとべたべたするだろう。
幸いにも廊下は踏み抜いたあとや割れた痕が見受けられない。壁や棚は破損したものもあるので、廊下も見える範囲以外には崩れているかもしれない。なんにせよ、用心するにこしたことはない。
「とにかく、慎重にね。色々勝手に触らないでよ」
「うん、気をつけるよ」
二人とも今日の作業にあたって、防塵加工の施されたマスクやゴーグル、厚手の長靴と手袋を身に付けているが、それでもクリスが錆びた釘でも踏みつけやしないかとヴィダは気が気でならない。
「棚は運ぼうとしたかな」
クリスの言葉によくよく見ると、棚の下は動かそうとしたような丸い痕がいくつも残っていた。それでも運べないような何かが起きて、それならば壊してしまおうと考えたのだろうか。
「かもね」
ヴィダは一つ頷き、
「廊下は大丈夫そうだけど、なるべくオレの後ろをついてきて。脆くなってたら言うから」
と続けた。
「うん、でもヴィーくんも気をつけて」
「大丈夫」
一歩踏み出すと、ぎ、と軋む音があたりに響く。その音に疑問を抱きながら、二歩、三歩と足を進める。気にしたって仕方がない。
まずは右に、と廊下を進み、途中にある扉を一つずつ開けていく。廊下沿いには応接室や客間、突き当たりに食堂と台所があった。
客間や応接室はカーペットが剥がされ、テーブルや椅子、調度品の類いが壁際に寄せられていたが、食堂と台所はあたかもそこから人だけが消えたかのようにそのままだった。いや、台所に関してだけは、そのままというよりは。
「わあ……。すごいゴミだね」
「うん」
口元を覆いながら、食堂の奥にある台所へ近付く。屋敷中のゴミをいったん此処に集めたのだろうか。床はすべて中身の詰まったゴミ袋で満たされており、うずたかく積まれたそれらによって、冷蔵庫やオーブンの前は塞がれ開かなくなっている。この分だと、冷蔵庫の中はより悲惨なことになっているのではないだろうか。想像して、より気分が悪くなる。
「ここは、後にしよ。探すにしたって、窓開けないとキツい」
「……うん、そうだね」
クリスも頷き、元来た道を戻り、今度は左の廊下へ。
「ヴィーくんのお仕事で、こういった古いお家に来ることはあるの?」
「あんま無い。造りが古い家はあるけど、卒業して一般職についてからのが多いと思う」
「そうなんだ?」
「うん。チンピラとか、違法薬物育てるのに廃墟使ってるケースとかあるって聞く。それこそ警察に引き取られればいっぱいこういうとこ来るんじゃない」
よく知らないけど、と捨て置くと、クリスもそれ以上は何も言わなかった。
ヴィダ自身、あまり廃屋には来たことがない。シャルロットのクラス、Cより上になると要人の暗殺や重要機密を得るための諜報活動が多い。Dより下であればちょっとした有名人までが担当だ。たとえば財閥の末端のほうにいる代表者の暗殺であったり、それこそ警察が手を焼くようなマフィアの下っ端を処分するので、こういった郊外の廃屋や人気の無いところが襲撃ポイントとして選ばれる事が多い……のだが、だとしてもこういった足下にも不安を覚える場所は、そもそもチンピラだって住み着かない。
窃盗や薬物の売買など彼らがメインに行う仕事は繁華街が中心だというのに、毎回こんな辺鄙なところに帰ってくるのはあまりにも不便だ。不法侵入するのであればもっといい場所がある。
辺鄙な場所に居を構えるのならば、もっと大がかりに組織だって行うとか、国の土壌が自然豊かで、金銭的に困窮した地域なのならばありえるだろうが……もしそうなのであれば、ここまで物品は残っていない。国が貧しい場所で住む人々は、所有者が不在であればなんでも金に変えてしまうからだ。
車からも屋敷からも根こそぎ物品をはぎ取り、壁や床だって全て剥がして、資材に変えてしまうだろう。こんな、人がいたという痕跡だけ色濃く残したまま朽ちるだなんてことは、起こり得ない。
気味が悪い。
かつて誰かが此処にいて、大量のゴミを残して、住み着いていたような痕跡は。
どうにも、気持ちが悪い。
「……。ホコリが多くて嫌になる」
「いったん外にでよっか。外でお水飲もう」
クリスに促され、探索を途中で切り上げて外へ出る。
マスクとゴーグルを取り、深く息を吸い込んでは吐く。肺の奥まで入り込んだあの屋敷の空気と外の空気を入れ替えてしまいたい。
「空気がおいしいねー」
「ほんとに……」
深呼吸を何度か繰り返し、ぼさりと音を立てて地面に座る。空気が停滞し、ホコリと朽ちた木とゴミを溜め込んだ建物内は長時間居ると体に障りそうだ。案外、これが心霊現象の原因なんじゃないかと愚痴をこぼすと、クリスも同意する。
「まだカーテンの残っている場所もあったし、客間が中心の下の階はともかく、上の階はもっと空気が澱んでいるんじゃないかなぁ。窓開けるのは……よくないよね?」
ヴィダは頷き、マスクを再び身に付ける。
「経年劣化で割れるかもしれないから、やめたほうがいいよ。掃除が目的じゃないんだし。ほら、残りの部屋見ちゃおう。日が暮れたら、また来なくちゃいけなくなる」
「ん、そうだね」
クリスもマスクとゴーグルを身に付け、二人で再び屋敷に戻る。反対側の廊下は突き当たりまで見ても、何もなかった。小さな浴室とトイレ、それから女中部屋なのか針仕事をする道具が落ちている部屋があったが、特段めぼしいものはなく、他の部屋と同じように棚や家具は壁際へ寄せられていた。
あとは二階。クリスの見立てだと居住スペースだろうとのことだが、果たして手がかりはあるのだろうか。
階段が朽ちていないかが心配だったが、特にトラブルなく二階へ上がる。
二階は、一階以上の沈黙に包まれていた。
「……」
ごく、と生唾を飲み込み、その音で気がつく。自分の立てる音が、いやに大きく聞こえるのだ。実際には、ヴィダは自身から立つ音を殆ど起こしていない。だというのに、歩けば衣擦れの音が、靴音が、床の軋む音がひどく耳につく。
廊下は、ただ太陽の光がじ、と差し込むだけ。
ホコリすら舞わず、音もなく沈殿したそれが、二人の来訪者を無数の目で見ている。そんな錯覚を覚えるほどの、圧倒的な拒絶をヴィダは感じた。
「やっぱり、二階が居住空間っぽいねえ」
「!」
急にかけられた声に、口から驚いた声を漏らしそうになったのを堪える。
クリスはそんなヴィダに気付いていないようで、手近な扉を開けると中を覗き込む。
「ここは……空っぽだね。子供部屋にでもする予定だったのかな。中は……うん、扉がついてる。たぶん、この先が奥様の部屋なんじゃないかな。もしくは……あーやっぱり。寝室だね。一式残ってる」
「本当だ。カーペットとかもそのままじゃん」
「ね。でも……なんか……」
言いながらクリスは部屋を歩き回る。室内には鏡台があり、その奥に続く扉の先は書斎になっていた。書斎には分厚いカーテンが窓を覆っており、明かりが殆どない。中に踏み込むのはやめ、部屋に戻ってくると困ったように眉を寄せた。
「どうしたの?」
「んー……えっと、確かルイスさんの話だと、ここって奥さんがバンシーになって、息子さんが清掃してほしいのに出来ないって噂だった……よね?」
「そうだったと思うよ」
「うーん……」
難しそうな顔を浮かべたクリスは、再び廊下に出ると何事かを考え込みながら全ての部屋を確認する。二階には浴室やお手洗い、リネン室のような場所があった。一部屋ずつ確かめたクリスは、再び寝室と思わしきベッドのある部屋へ戻ってくる。壁にかかっている家族の肖像画を見て、首を傾げている。
「どうかした?」
「いや……、ちょっと変だなっておもってさ」
「変?」
「一階は物を運ぼうとした形跡があったけど、食堂と二階は殆どそのままで残ってるじゃない? なのに、夫婦の寝室から続くこの部屋だけ空っぽなんだよね」
「ああ……確かに」
「でも依頼人ってこの夫婦のご子息でしょう? どうして空っぽなんだろうって」
「引っ越しで持ってったんじゃないの?」
「うーん、でも、子供時代のものって持っていくのかな……どちらかというと、いらないものは残していくんじゃないかな。子供の頃の本とか、おもちゃとかさ」
最初はまだ生まれていない子供のための部屋かと思った。それであれば調度品の類いが一つもなかったとしても、これから揃える予定なのだろうと理解できる。もしくは、不慮の事故があったから全て捨ててしまった、だとか。が、現実には息子は生きていて、この屋敷の心霊現象に悩んでいるのだというのだからその線は薄い。
「……よく知らないけど……そういうもの?」
ヴィダも戸惑いを浮かべながらクリスに尋ねる。確かにヴィダも親元を出る時には身一つで出てきたし、状況的に組織から私物を持ってこれるような状況ではなかったものの、どうしても持っていきたいような物は特にない。
といってもヴィダは組織に所属してから各支部を回って過ごしていたので引っ越しも多く、物を極力持たない生活を続けていた。
なので、自分のように持っていきたい荷物が無かっただとか、持っていけるような状況ではない限り、引っ越す時は荷物を全て持っていくのではないだろうか。
シャルロットやバートの部屋は私物が多かったし、捨てられないものも多いのだとよく聞く。そんな彼らがもし引っ越すのであれば、荷物は全て持っていくのではないだろうか。
立ち止まって考え込むヴィダに、クリスはぱん、と手を合わせ、声をかける。
「さてと。ヴィーくん、そろそろ帰ろう。調べたいものもあるし、そろそろルイスさん戻ってくるだろうから」
「え?」
「やっぱり、ゴミの臭いもすごいしね。服も重いし」
言うなりクリスはヴィダの手を引き、階段を降りていく。困惑しながら後ろをついていくヴィダ。急にどうしたのだろう。やはりお坊ちゃまにはこういった汚い場所は厳しいのだろうか。具合が悪くなってしまっても困るか。と一人で結論を出し、先を歩くクリスのつけた足跡に自分がつけた足跡を重ね、つま先でぐしゃりと周囲のホコリに混ぎれさせながら、反論はせずに黙って後をついていく。
帰り道の廊下が異様に伸びているだとか、玄関ドアが勝手に閉まっているだとか、オカルトあるあるな事象は見受けられず、特に何事もなく二人は外へ出る。
「はー、思ってたより歩きやすかったのは助かったね」
「うん。でも、暑かった」
「これだけ着込んでたらねー。帰ったらお風呂入ろう」
「うん。マリーさんからもらったバスボムも使おうとおもう。いい香りだったから」
「お、いいねー」
外で風にあたりながらそんな会話をしていると、程なくして車の排気音が聞こえ、二人の近くに止まった。
「あれ、休憩ですか?」
「あ、いえ。もう調査完了です。大体わかりました」
「え」
「ええ!?ほんとですか!」
驚愕したルイスの声に、クリスは疲弊を浮かべた笑顔でほんとですよーとひらひら手を振る。
「でも、裏取りしたいのでもう少し時間をください。内容をまとめましたらルイスさんへお渡ししますので」
「はい、調査期日はまだ先ですし、そこはお任せしますが……え、失礼だとは承知してますが本当ですか? もう何社も何社も依頼しているのに、一向に解決していなかったんですよ?」
「あはは。でも、もし当てが外れていたら恥ずかしいので、結果を出すまではこの屋敷の持ち主の方に、何も言わないでください」
そう笑うクリスに、ルイスも得心いったのか、大きく頷くと「なるほど! 探偵もののクライマックスは見せ場ですもんね! わかりました!」と、勝手に納得してみせた。クリスがわかったと言っている内容も、ルイスの謎の納得も全てがまったくわからないヴィダを置いて話はまとまってしまう。一向は車に乗り込み、ばたんと音を立ててドアを閉じるとあっという間に車は出発。
帰りは快適で、ルイスが差し入れてくれた炭酸ジュースやウインナーを挟んだパンに舌鼓を打ちつつ、軽快なラジオよろしくしゃべり続けるルイスのオカルト話を聞いているうちに二人は家についた。
先ほど話していた通りにまずは汗を流し、ヴィダの作った夕食を食べ終え、食後のお茶を運んできたところでようやく気になっていたことを聞く機会に恵まれた。
「ねえ、本当にわかったの?」
香りのよい紅茶を差し出せば、クリスは礼と共に短く「想像だけどね」と返し、紅茶を口に含む。
「僕からも聞いていいかな」
「ん?」
「ヴィーくん、汚い場所……苦手?」
その問いに、やや左下へ視線を向けてヴィダは「苦手」と同じように短く返す。
「そっか。ヴィーくん、お掃除完璧だもんね。汚いところは好きじゃないんだろうなって、思ってはいたんだ」
「誰だって綺麗な場所のほうがいいでしょ」
「あはは、そうだね」
クリスは笑いながら、ヴィダの自室を思い起こす。彼の部屋には極端に物がない。衣服を入れる棚と、ベッド。今あるのはそれだけだ。床にゴミがあれば必ず目に付くし、物を落としてもすぐに見つけることができる。
ダイニングやリビングなど、共有の場所を綺麗にするというのはヴィダがメイドを自負している以上、仕事のうちとして納得できる。だが、半年以上経過しているというのにこの年頃の子の部屋があれだけ綺麗……殺風景というのは、やや偏執的なものを感じる。かといって物の共有にためらいを持つでもなければ、頻繁に手洗いをするような素振りもない。つまり、彼は菌の付着を極度に恐れているのではないということだ。かといって、なにか大切なものをクリスの手が届かないところに溜め込んでいるということもなく、たまにクリスが要らないと判断したものを捨てたとしても感謝するだけ。
ヴィダの部屋がどうしてあれだけ不要なものが無いのか。ここまでの情報から考えられるのは、溜め込み癖のある人物による、不衛生な室内に嫌な思いをした反動ではないだろうか。それがヴィダ自身が起こしたものなのか、周囲の環境によるものなのかまでは、クリスにはわからない。
あるいは視覚情報が増えると疲労が増すタイプなのかとも考えたが、キッチンや応接室を含め、共有の場所にはむしろ楽しんで花や小物を飾っているし、クリスが本や資料を置いても雑然としていなければ気にする様子がないため、これも違うかと自身の考えを否定した。
「ヴィーくんがお掃除上手でよかった。いつもありがとう」
「別にいいよ。アンタが何かできると思ってないし。それに、汚い場所が綺麗になっていくの楽しいし」
「す、少しずつ覚えていくから……。今度やり方教えてほしいな。ヴィーくんにばっかり面倒かけるのも、今の立場だと違うじゃない。僕もう一般人だもの」
指同士を組んだ上に顎を乗せて苦笑するクリスに、ヴィダは左右に首を振る。
「いいよ。何も出来なくて」
「そっかー、じゃあ僕はお仕事頑張るよ」
「それもいいよ。アンタん家からいっぱいくすねてきてるし」
「う、うーん」
相変わらず視線は右下に伏せられたまま、固い口調で淡々と続けるヴィダに、クリスはしまったなーと頬を搔く。意固地にさせてしまったかもしれない。
どうしたら彼の緊張を解せるだろうかとクリスが悩んでいると、ヴィダはクリスの前の椅子に腰掛け、目線を合わせることなく尋ねる。
「今日、オレなにか変な様子、あった?」
「変ではないけど、具合が悪そうだった……かな」
クリスは今日のヴィダの様子を思い返しながら返す。ひどく緊張し、顔色を悪くさせていた彼の様子をそうとは伝えずに。
「あれだけホコリも多くて、長いこと換気されていない場所は僕も気持ち悪くなっちゃったもの。丁寧に掃除してくれるヴィーくんからしたら、我慢ならなかったんじゃないかって思って」
「そっか」
ヴィダはそれきり、視線を伏せて押し黙る。
クリスも何か言うのではなく、追加の紅茶を口にしながら黙って彼の言葉を待った。長丁場になるようならヴィダの分も飲み物を用意してあげたいが、それを促すタイミングは今ではないし、かといってクリスが席を立てばそれきり。この場は流れてしまうだろう。
「……オレん家には、バケモノはいなかった」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「最初は両親がいて、普通の家だった。その頃は確かに、悪いことをするとブラックサンタがやってくるとか、母親から聞いたことがあった」
「うん」
ブラックサンタクロースというのは、悪い子には罰を与えたり、悪い子を攫ってしまうといった伝承だ。よい子にプレゼントを贈るサンタクロースの対となる存在であり、だからこそ一部地域の子供は、プレゼントが欲しいなら一年いい子にしていないとならない、悪い子でいるとブラックサンタクロースがやってきて、ひどい目に遭うよ、と、親からよく語って聞かされているお伽噺だ。
「何年か前に、その母親が出ていった。父親は色々頑張ってたけど、居場所はわからなかったみたい。で、家が荒れてった。冷蔵庫は無事だったし、ゴミだってオレが出してたからあそこまでは酷くなかったけど」
「そっか」
そう語るヴィダが、結果的に組織に辿り着いていることを考えると、彼の話した言葉の合間に仕舞い込まれた内容はこんな短いものではないだろうと想像がつく。もしその父親と協力しあって生活出来ていたのであれば、彼が組織に流れ着く必然性がないからだ。
そこからヴィダは、しばらく待っても何も話すことはなかった。
「ヴィーくん、ココア飲みたいな。一緒に飲まない?」
「ん。作る」
頷いたヴィダがキッチンに向かい、程なくして甘い湯気をあげるココアを二人分持ってきた。「こっちに座ろう」とクリスがソファへ移動すると二人並んで座って、二人とも両手でココアの入ったカップを持つ。
ヴィダはちびちびココアを口に運ぶが、やはりずっと口を閉ざしていた。
「ヴィーくんはいい子だから、これからは毎年サンタさんが来るね」
「はあ? アンタ、何いってんの」
「僕にとってはヴィーくんと出会って、いいことしかなかったもの。きっとサンタさん、毎年くるよ」
そう笑うと、ヴィダがぽすん、とクリスの方へ体を倒す。あたたかいその体は、やはり緊張に強ばっていた。
「オレ、いい子かな」
「いい子だよ」
「ん」
頷いたヴィダが目元をぐしぐしと拭う。朝から出ずっぱりだったので眠いのだろう。だが、これまで二人で生活している中でヴィダがそんな様を見せたのはこれがはじめてだった。
彼はいつも、クリスより遅く寝て、クリスより早く起きる。目覚めてるときはいつでもシャキッとしていて、隙がなく、あくびの一つも見せない。それはヴィダが自身に完璧を強いていて、常にそうであろうと努力している成果でもあり、同時にクリスに対して常に気を張っている状態が続いているということの証明でもある。
雇用主と従業員の関係であれば正しい状態なのであろうが、二人はそういった間柄ではない。ヴィダが好んで(服装に合わせているのだとは思っているが)クリスに仕えている体を取るので主従関係を装っているが、実際にはクリスの所有者がヴィダなので、立場は逆なのだ。なによりヴィダは強い。クリスが正面から喧嘩をしようとしたところで万に一つも勝てない。背後を取ろうが奇襲をかけようが、下克上など考えるだけ益がない。
それでありながら完璧を続けてきたヴィダが、今こうして気を緩めた姿を見せてくれたというのはとても喜ばしいとクリスは思う。
「ヴィーくんはいっぱい僕のこと助けてくれたから、今度は僕が助けたいな」
「アンタに何ができるの」
「うーん、お仕事のほうはだいぶ軌道に乗ってきたと思わない?」
「確かにね」
クリスの言葉にヴィダは頷く。
どうにも眠たくなってきた、とヴィダは自身の重たい瞼を擦る。舌先にもったりと重たいココアを口に運び、飲み終えるとほうっと息を吐く。
クリスの評価は、ヴィダの中でここ最近でずいぶんと変わった。
何もできないお坊ちゃんではなく、得意な分野であればヴィダでは想像もできないようなめざましい活躍を見せる。特に人との交渉に置いては、シャルロットをしても口を噤ませるレベルだ。
たとえ依頼人が、どう考えても納得しないだろうという調査結果が出たとしても、話し合う中でクリスが負けたことはない。結果、話し合いで勝てないとわかった相手が激高して殴りかかり、より不利な状態に陥ることはあるがそれだけに誰からみても被害者とわかる状況を作り出しているので、それすら計算のうちなのかと思える。彼の振る舞いは、いったいどこまでが計算でどこからが成り行きなのかがわからない。
「アンタ、この仕事向いてるんだろうね」
「ふふふー。まあ、相変わらず出来ないことは出来ないんだけどさ」
「それがわかるだけいいよ」
交渉、交渉か。
ヴィダはそこでふと考える。
今まで考えていなかったこと。これまでを続けるために、これから具体的にどうするかについてだ。
このまま、此処でただ漫然と住み続けるわけにはいかない。かといって無策で組織に戻れば、よくて降格、悪くて射殺、普通に考えて射殺なことは明白で。実際、今だっていつバートやシャルロットのように刺客が来たっておかしくない状況だ。頃合いを見て再び逃走するしかないだろうが、シャルロットだって次は見逃してはくれない。
じゃあどうするか。
ずっと考えることから逃げてしまっていたが、ひょっとして。クリスならば、交渉できるのではないだろうか。具体的な策も、どうやったらそんな都合がいい条件になるのか落としどころも見つからない。でもクリスなら、見つけてくれるのだろうか。
「ん?」
視線をあげれば、目が合う。
きらきらしているなぁ、とヴィダは思う。
クリスは出会ったときから、ヴィダのいちばん星だった。真っ暗な夜の中で、きらきらと光っている星。届かないとわかって、それでも欲しいと思って掴んでしまう、ツリーのてっぺんに輝くいちばん星。
ヴィダがヴィダという名前でない頃、組織に入った後でもなく、本来の名で呼ばれていた頃の思い出の殆どは、黒い黒い夜で覆ってしまった。
ごみと腐臭に覆われた、最悪な黄昏に包まれた家からようやく外へ飛び出して。からからの体で走って走って。走り続けた先、延々と続く夜のただなかで出会った人の手を取ってからは、その恩義に報いたいと闇に身を隠して過ごしてきた。黒くべったりと手に張り付く血液の感覚も、生暖かい臓器の感覚も、捨て去った忌まわしい暮れに比べれば浅い闇だと気に留めず、様々な支部を巡って研鑽を積み続けた。
その頃の彼の目的は、ひとえに恩返しだった。
『ずいぶん疲弊しているようだし、きみにその気があるならば身支度を整える程度はうちで世話をしよう。もちろんこのまま、警察のもとへ向かっても構わないよ。好きにしなさい』
あの夜、組織に招いてくれたその人に報いることが出来る功績を打ち立て、会って礼をすること。それを目的に様々な支部を巡り、ひたすらに自己研鑽に励んでは結果を打ち立ててきた。
だが、その人は結局、どこの支部に行っても出会えなかった。
人の多い組織なのだし、現場に出ているのかもしれない。そもそも出会ったあとに卒業してしまったのかもしれない。もし卒業したのであれば、出会うことは難しいだろう。組織を出た人間に、現役の人物が接触するのはそれだけでリスクがあるのだ。
だとしたらもう、会えないのかもしれない。
世界中の支部を巡りながら、一向に得られない恩人の情報に肩を落とし、次第にあきらめが胸に満ちていた頃であった。ラッセル家がターゲットに決まったのは。
ごくごく限られた、少数精鋭のみで実行する最高難易度の標的。マンネリ化していた頃に与えられたその仕事は、胸躍るものとなるかと考えていたが、実際に手をつけてみるといつもと変わらない業務の延長で。困難な仕事ですら達成感を得られないのであれば、この先どうしたらいいのだろうと思っていた矢先に見つけたのだ。あまりにまぶしくて、心まで焼かれてしまうほどのいちばん星を。
綺麗で、透明で、まばゆくて。どうしても欲しくてたまらなくなった。
その星を掴めばどうなるかはわかっていたのに。ツリーのてっぺんに輝く星を、無理に掴ん引き倒してしまえば枝はめきめきと折れ、土はこぼれ、綺麗な飾りやお人形が落ちてしまうのに。そうだと理解したうえで、それでもほしいと手を伸ばし、全てを台無しにしたのだ。
そうしてクリスと出会ってからの日々というのは、さながらいつか終わるオルゴールの上で過ごしているようなものだった。巻かれたねじが、動きを止めてしまえば終わる夢。それでもきらきらと、手元の星が輝いているのであればそれでいいと考えていたのに。
つい、期待してしまった。
オルゴールのねじが再び巻かれて、この日々が、このきらきらとした夢が続くことを。
クリスに交渉を任せて、上手くいく確率はどのぐらいだろうか。
きっと、雷に当たる確率よりは高くて、ダーツの真ん中を狙って当てるよりは低い。ガレット・デ・ロワを口にしたとき、黄金のフェーヴに当たるぐらいだろうか。きらきらとしているのだし、ぴったりかもしれない。
「あのさ。近いうちに、オレからも……話がある」
「今じゃダメなの?」
「今は……」
唇を開き、クリスへ向かって言葉を伝えようとして……まだ、出来なかった。
「ちょっと、眠いから。でも絶対、近いうちに話す」
「うん、待ってる」
クリスも無理に言葉を引きだそうとはせず、おだやかに頷いた。
この星を手土産に、組織へ帰る。
アタリが出るか、ハズレとなるか。それはクリス次第となるだろう。
そうして、物語は冒頭へ戻る。
「そろそろ着くよ」
シャルロットの声に、伏せていた視線を上げる。近くの風景を確かめ、想像していたよりは近い支部に連れてこられたなと思う。
「着いたら、クリスさんは目隠しを付けたまま中に連れていきます。中の客間に着いたらボクから合図しますから、それまでは勝手な行動はしないでください。ヴィーくんも、クリスさんの近くにいてね」
「ん。わかった」
さて。ここが正念場だ。
車から降りると、シャルロットにクリスの手を引いていくよう促される。玄関からホールに入ると、人の姿は見当たらないというのに無数の視線に射貫かれた。
「………………」
気にかけないようにしながら、平静を装ってクリスの手を引いていく。先導はシャルロット、しんがりに卒業生がついて、二人を見張っている。
「じゃあこの部屋で、合図があるまでは待っていてね。またあとで呼びにくるから。ボクが出たら、クリスさんの目隠し取ってあげていいよ」
シャルロットは心配そうな表情をヴィダに向け、部屋を出ていく。卒業生もその後をついていったので、室内には二人だけになった。
「ヴィーくん、目隠し取って平気そう?」
「うん、大丈夫」
「わー、まぶしいや。ちかちかする」
「のんきな……」
しぱしぱと目を瞬かせるクリスの様子に呆れつつ、ふうと息を吐く。ついに戻ってきてしまった。
その冷えた手を、クリスがぎゅっと握る。
「大丈夫だよヴィーくん。大丈夫」
「……ん」
覚悟はできた。あとは、信頼するだけ。
「頼りにしてる」
ヴィダがしっかりとクリスに視線を合わせて言葉にすると、クリスは一度目をまるくし、それからふにゃりとした笑顔を浮かべる。
「うん、任せて」
巣へ戻ったワタリガラスはまもなく、知の鷲に出会うだろう。そこにはフクロウもキセキレイもなく、あるのは手元の星を詰めた菓子のみ。
さてどんな混乱が起こるのか。それはまた次のお話。