ある人物は考える。
空の色は青ではない。
海の色は青ではない。
なら何色なのだろうと考えた。考えたうえで、空の色は青で、海の色は青なのだと、そう決めた。なぜならば自らへ否定を聞かせるそのひと自身が空は青いと口にして、青を見ては海の美しさを語っていたからだ。
空は青い。海の色は青い。しゃぼん玉の内側から見たその景色はまるで違うものに見えていたけれど、大切なことは己から見た正解ではない。本当に大切なものは、トゲの姿をして傍らに佇んでいる。
ある人物は考えた。
空の色は青ではない。
海の色は青ではない。
なら何色なのだろうと考えた。考えたうえで、空の色は青で、海の色は青なのだと、そう決めた。なぜならば彼が生まれ落ちたその時点で、光の波長の違いにより目から受け取ったその信号は青色だと定められているからだ。
実際に、個々が受け取ったその信号を脳が変換し、認知したものの実がどんなものかは関係がなく、親から子へとこの色が青でこの色は赤だと教わればそういうものだと認知し、認識し、後世へ伝わっていく。
故に彼は空を青と解答し、海は青だと答えた。そうあるべきなのだと小川の底に住まうサワガニへと熱弁する。
その解の裏で数行の文字列を飲み込んで、わずかなあぶくをぷくぷくと彼は吐き出した。
本当に大切なものは、言の葉の裏で脈動する。
ある人物はそんなことはどうだってよかった。
人の中身から漏れ出すその液が血液であることも、それが本当に赤色であるのかだなんて、彼は考えない。
彼にとって大切なことは、対象から漏れるその液体の量が十分に致死量であるかどうかであって、なんならその対象が真性に人間であったかどうかだってどうだってよかった。
空の色が青ではない。どうだっていい。
海の色は青ではない。どうだっていい。
たとえ空の色が錆色であり、明日降る雨が黒かろうと、その現象自体はどうだっていい。大切なことはその雨により彼の周囲にどんな影響があって、どんな回避策があるのかが大切なのだ。
死ぬのか、死なないのか。
いずれ死に至る可能性があるのかないのか。
大切なことはそれだけだ。
彼にとって大切なことは、しゃぼん玉の内側に座る人物の殻が割れることで今が幽玄のうたかたと消えてしまうかどうか。
彼にとって大切なことは、小川のほとりで考え込むフクロウが、水は青いものだとその瞳と同じ色をした小瓶を傾けないかどうか。
本当に大切なものは、指の届く先で瞬いている。
「んー……」
食器の擦れる音で目が覚める。
穏やかな陽光が差し込む窓辺を見て、今日はいい天気だなとクリスはまくらに頭を沈ませたまま思い、ぐうと体を伸ばす。
「ん?」
その伸ばしたつま先に、何かあたたかい物が触れた。あれ、と首を傾げつつ、ちょんちょんとその物体をつま先で突けば、それは勢いよく飛び跳ねた。ついでにふとんが舞って、床へぼさりと落ちた。
「うわあくすぐってえ!」
「わあ!? ば、バートくん?」
つい先日、クリスを殺そうと侵入してきた彼がそこにいた。頭の頂点で、いつものようにあほげがぴょこんと立っているが、それ以外にもあっちゃこっちゃで髪が好き勝手に跳ねている。昨夜はしっかりと髪を乾かさずに布団へもぐりこんできたのだろう。
「ん~? もう朝? おはよ」
「おはよう……」
驚きすぎて壁に頭をしたたかにぶつけたクリスだったが、その耳に今度はより破壊的な物音が届く。ヴィダだ。
「なにしてんの」
轟音を立てて扉を開け放ったヴィダだが、その声音は底冷えする静けさを伴い、さながら山の奥底でゆったりと静かにとぐろを巻くマグマのよう。今にも噴火口から飛びださんとする怒りの勢いが見て取れる。
「そ、そんな怒らなくったっていいだろー? オレだって仕事終えて疲れてたんだしさあ」
「仕事終えたなら帰れ。なんで来てんの」
「お前に会いに来たにきまってんじゃーん」
「帰れっつってんの。わかんない?」
ヴィダの怒りなんてもう慣れっこだとばかりにバートはぴょんと彼に飛びつき、思い切り突き飛ばされる。
「わっ、いで!」
「だ、大丈夫?」
傍からはわわと見ている側からすれば、床にどてんと打ち付けた尻が痛そうにみえる。が、バート本人はけろっとした様子で「へーきへーき。んで、朝メシはなに?」とヴィダに聞いている。本当に慣れっこなやりとりなのだろう。見ているこちらばかりが心臓に毒だ。
ヴィダはそんなバートをじとりと睨む。
「だいたい、なんでクリスの部屋に忍び込むんだよ」
あれからバートは、頻繁にヴィダに会いにやってきていた。すでに隠れる理由もないからか、窓からドアからお構いなし。特にお気に入りの侵入経路が、クリスの部屋だった。
「ん? だって勝手にお前の部屋入ったらこえーじゃん」
「じゃあせめて玄関から入りなよ」
「玄関から入ろーとしたらお前怒るじゃん」
「今だって怒られてると思うんだけど、わかってないわけ?」
「ぶ~~」
頬をふくらませながらも抱きつこうとするバートをヴィダは押しのけ、今度は窓に近づき、難しい顔で窓枠を確かめる。
「……あんたも、窓から人が入ってきてんのになんで気がつかないの」
「あ、あはは~ごめん……」
風が吹いたら飛びそうな軽やかさの謝罪に、ヴィダは眉根に疑惑を乗せる。
「……あんた本当は、バートが入ってこれないと可哀想とかおもってんじゃないの?」
「あはは……」
「はあ……」
図星なのだろう、困ったような笑顔を浮かべるクリスに大きくため息を吐くとしっかりと窓を施錠し、カーテンを閉めたヴィダは二人にリビングへ来るよう言い残し、ダンダンと足音を立てて部屋を出ていった。もちろんわざとだ。怒ってますと全身で伝えても全然響かない二人への当てつけだ。
「……なあなあ。オレはもう慣れてっけどさ。お前、あいつこわくねーの?」
「ヴィーくん? こわくないよ」
「はーん、変なやつ。まいいや。ほら行こうぜ、遅れるともっとうるせえし」
「そうだね、着替えたら行くよ」
バートが部屋を出ていき、クリスは身支度を整える。今日は晴れているし、調査の仕事を片付けるのもいいかもしれない。
朝ご飯はなんだろうなーと階下を降り始めたタイミングで、コンコン、とドアノッカーが叩かれた。
「はーい?」
二階で足を止めず、そのまま一階へ降りて玄関へ。
こんな朝に誰だろうとドアを開けると、たおやかな笑みを浮かべた少年がすぐそこに立っていた。
「こんにちは」
彼は自らの長いメイド服の裾をそっと持ち上げ、
「そして、さようなら」
穏やかな笑みのまま、優雅に一礼をする。持ち上げられた彼のスカートの裾から何かがゴトンと音を立て、玄関先に落ちる。その瞬間、とんでもない早さで誰かが脇から飛び出して相手に組み付き、同時に強く上階へと引っ張られた。
「……っ早く、上に!」
「く、くるしっ」
「いいから! 息止めて、上まで走れ!」
事態を把握する暇もなかったが、言われるがままにクリスは階段を駆け上がる。あれが毒ガスの類いであれば上に逃げるのは悪手のようにも思えるが、かといって他に逃げ場もない。何よりクリスは、声の主を信頼していた。
「こっち、急いで」
先導していたヴィダはクリスの部屋へ入ると、先ほど閉めたカーテンと窓を大きく開け放つ。そこから器用に隣の家の屋根へ飛び乗った。クリスもヴィダの真似をしてなんとか飛び乗ると、そこから玄関に視線を向ける。
「なんだか取っ組みあいになってない?」
「じき収まるよ。それより……」
ヴィダは自分が飛び移ってきた窓を見て、それからバートと争う様子を見せる白い髪の人物を睨み付ける。
「あの子が、シャルロットくん?」
「そう。やっぱ殺す気で来たね」
見た目は三人のうちで誰より大人びた印象だ。
ふわふわとした綿毛のような髪に、鮮やかな花緑青の瞳。バートと比べると背が高く、年齢も上だろうか。ヴィダとバートが短い丈のメイド服を身に付けているのに対して彼だけは長いものを纏っているあたり、彼ら二人に比べると落ち着いた印象を受ける。
見た目だけは。
「もー! なんで邪魔するのバート!」
「落ち着けってシャル~! つか、いきなりなにすんだよ!これから朝メシだったのに!」
「朝ご飯!? ボクがどれだけバートが帰ってこなくて心配したとおもってるの!? ごはんいらないならそう言ってって、いつもあんなに言ってるのに!」
「だあ、それは悪かったって! でも昨日は疲れちゃって~! もう一歩も動けなくってさぁ!」
「ひどいよー!! ボクがいっつも二人のこと心配してるの知っててそういうことするんだぁ!」
わあわあ。ぎゃあぎゃあ。きいきい。ぎいぎい。
もー大変。早朝からメイド服の男の子二人が路上で取っ組み合いだなんて、目立つことこの上ない。
「…………………………」
ヴィダは絶句。怒りも呆れも通り越して虚無が彼の中に満ちていく。
今でこそ逃亡者であり裏切り者であるが、ヴィダは組織に恩義を感じており、組織に属していることに誇りを抱いて生きてきた。組織に対する忠誠心は高く、故に技術を磨き、肉体を磨いて努力に努力を続けてきたのだ。だからこそ見過ごせない。もう組織を脱退せざるを得ない状況であっても、これは無視してはならない。
天を仰ぎ、大きく息を吸って、長く吐く。
あんな目立っちゃって。ばっかじゃないの。
「……あんたは此処にいて」
「あ、うん」
クリスもヴィダの様子に気がついたのか、それ以上なにも言わず大人しく頷く。その様子に満足すると、ヴィダは器用に下に降りると、開けっ放しの玄関のドアを閉じる。
ふう。これでいい。ドアを閉じたことで中にガスが充満することになるだろうが、外へ漏れ出るよりは余程いい。清掃代はあとでもらおう。
次に、言い争う二人の首根っこを掴む。「わっ」「わっ」と短い悲鳴を上げているが気にしない。さっさとこの二人を、人目につかない路地裏まで連れていかなくては。
「いだっ」
「いたたたたっ」
容赦なく道路の凹凸に肌が擦られて痛そうな声が聞こえるが、怒りに充ち満ちたヴィダの心には響かない。ずりずり、ずりずりと引き摺っていく。
隣家であるマリーの家の前を通り過ぎ、角を曲がるとぐるりとまわる。目的地はマリーの家の裏手にあたる路地だ。薄暗い路地にはゴミ箱が二つ並んで置かれ、室外機がくるくると己の役割を果たしている。他に人の姿がないことを確認するとそこに二人を投げ込み、ヴィダは静かに彼らを見下ろした。
「……今オレ怒ってるんだけど。なんでかわかる?」
ヴィダの言葉に、バートとシャルロットは顔を見合わせる。二人がヴィダに怒られるときはいつもこうだ。そう昔のことでもないのに、懐かしさを覚えるなとヴィダは思う。顔には出さないけれど。
「え、えーっと……シャルがあいつのこと殺しにきたからだろ?」
「違う。かといって、それも許してない」
ぱっと表情が輝いたシャルロットを横目に見て、間髪入れずに訂正する。
「あのさ、オレはともかくお前らはまだ組織に所属してるじゃん。なにあの騒ぎ。白昼堂々とさ」
ヴィダの言葉に、シャルロットが唇の内側からもごもごと反論する。
「そうは言うけど、……きみだって、まだメイド服着てるじゃない……」
「その話は今はしてない」
メイド服は組織で規定されている衣装だ。
体型が隠せて、遠目には性別を誤魔化せ、色がシンプルで使用人という他人に仕える身分を示す服。それを身に纏い、彼らは組織で過ごして仕事を行う。
そんな特徴的な衣装で過ごせば、誰が構成員かなんてすぐバレてしまうだろうという意見は子供たちの中でたびたび話題になるのだが、毎回すぐに沈静化する。
それは彼らのメインの仕事は暗殺業であり、彼らを見た人物は軒並み命を落とすからだ。故に目撃されない。されてはならない。
彼らを目撃することが出来るのであれば、もう一つの仕事のほうだ。それは大人を相手にする『奉仕活動』。生きたまま仕事着の彼らを見れるのはそちら側の顧客だけ。だからこそ、たとえ街中でメイド服を着た少年を見ても顧客は見て見ぬ振りをする。知っているということは、関わりがあるということだ。顧客らはおしなべて突かれたくない疵がいくつもある者ばかり。故に彼らは無視をする。『知らないこと』にする。
世界というのは、世間というのはそうした顧客が所属する、様々な団体からのあらゆる思惑を内包した働きかけにより動かされ、一般人の意識は操作されていく。性差を感じさせない衣装を身に纏うことも、お伽噺にしか出てこないような衣装を身に纏うことも。すべては当たり前にあるものとして操作されていく。
男の子がスカートを履いたっていい。女の子は他者から与えられた役柄をこなすような服装ばかりしなくたっていいのだという風潮が馴染みつつあるの世の中では、たとえメイド服の少年三人が、なんでも屋をやっている成人男性一人の家の前で大喧嘩していたところで、組織と結びつける人はいない。
実際、大多数の人々はそんな突飛な発想には至らないであろう。せいぜいこのなんでも屋がいかがわしい商売なのではないかと勘ぐるのが関の山だ。
メイド服の子供たちが取っ組み合いをしている現場を見て、うわなんだあれっていう空気だとか、ここの人、やばい趣味持ってるんじゃ? みたいな営業妨害が発生する程度はどうとだってなる。いっそ、それ以上の何かを勘繰られないのであればそのほうがいい。
しかし、情報は泳ぐ。
やがて支流に乗り、川上に釣り上げられた魚に価値を見いだすものが出ないとも限らないのだ。だからこそ、目立たないで済むなら大人しくしているほうがいい。
……というか、そんな想像の先を考えるまでもなく、そもそもの話、だ。
裏稼業の人間が目立つなんて御法度中の御法度だ。そんなの、組織に所属していなくたって理解していて当たり前のこと。だからヴィダは怒っている。朝からずっと機嫌が悪い分も上乗せで、もう思考はショートしかねない程に怒っていた。
「目立つなって言ってんの」
「……うー、ごめんなさい。でもさぁ、シャル押さえないとやばかったぜー?」
「それは感謝してる。ありがとバート」
「えへへへへえ」
バートの咄嗟の機転により、すぐにシャルロットを押さえ込むことが出来たのは大きい。そのおかげで、クリスがシャルロットに話しかけないで済んだ。
クリスの行動は、ヴィダにとって計れない。予想ができない。もしあのままシャルロットと引き合わせていた場合、クリスが甘んじてシャルロットに刺される選択を選ぶことだってあり得る。それほど、ヴィダにとってクリスは未知であった。彼を動かさないで済むなら何よりだ。
「ねえ、なんでバートまであの人のこと守ろうとするの……?」
そんな二人のやりとりを見ていたシャルロットが、ぽつりと言葉を落とす。
「あの人がそそのかしたんでしょう? あの人がいなかったら、戻ってこれるんでしょう?」
「シャル、本当にそう思ってる? どうせ、何日も監視していたんだろうけど……そのうえで、オレがあいつに唆されたって、思ってる?」
問われたシャルロットは、その硝子玉のような綺麗な瞳を開いたまま、小さく横に首を振る。
「オレがあいつに脅されているように、見えた?」
「ううん」
「あいつが、オレに酷いことしているように見えていた? オレが辛そうに見えた?」
「……ううん。でも、……きみは、大人のひとのこと、嫌いだと思っていた、し。ボクたちのこと、大切にしていると、思ってた」
ぽた、と。注射器から空気を抜いたときのように、彼の瞳から涙が落ちる。
ヴィダは屈んでシャルロットの目元を拭うと、彼の瞳をしっかりと見て、強く彼の肩を握った。
「ヴィダ」
「……え?」
「今のオレの名前。シャルにきみって言われるのは……寂しい」
「~~~~~うわぁああぁぁん」
ぎゅううと強く抱きつき、わんわんと大声をあげてヴィダに泣きつくシャルロットの背を、ぽんぽんとヴィダは撫でる。撫でながら、改めて口にする。
「あんな目立つことしといて、言うことは?」
「ごめんなざぁぁい」
「よし」
すっかり蚊帳の外で二人を見守っていたバートは、後方で腕を組みながらうんうんと頷く。よしよしこれにて一見落着だとばかりに。
「でもボクは絶対にあの人のことは認めない」
底冷えしたシャルロットの声が落ちて、バートはぞ、と自らの腕が粟立つのを感じる。。
彼の声は淡々としていて、なんの色も乗っていない無機質なそれで。室外機から聞こえる、低い振動音がいやに耳朶に触れた。
「ボクの大事なものを奪って自分のものにしていくあの人は認めない。あの人は危険だ。こうして、あの人が存在することを許容する空気を作り出す。あの人が、存在することを認めようとするように、世界のほうが許容する。危険だ。あんなもの、置いていちゃいけない。ボクたちが目立ってはならないというのなら、なおさら。あんなものを近くに置くだなんてとんでもない。ボスもなんだってあの人を殺さないように言ったんだ? そうだ、それもおかしい。違反者なのに、裏切ったのに、ボクに時間をくれたことも不思議だったんだ。いくら貴重なAランクであるからといっても例外はない。いくらボクと仲がいいからって見逃すような人じゃない。いくらなんでもおかしい。そうだ。おかしい。ボクの大切なものをボクに気付かれる前に奪いされるだなんて。みんなあの人のことを好きになって、味方になっていくなんておかしい。気持ちが悪い。そんなこと、あってはならない。許容してはならない。最初の晩もおかしい。対象を仕留め損ねるだなんて、どう考えたってあり得ないことだった。さらには逃走だって? あり得ない。それがあの人に惚れたからだって? 認めない。あり得ない。たかが色恋で組織を裏切るような育て方はしていない。バートが襲撃してもあの人は生き延びて。バートまであの人と仲良くなっちゃって。楽しそうで、ボクのところに帰ってこないで、連絡もしないで。あり得ない。二度もあり得ないことが続いているのに、ボスまで殺すなと言ってきた。あり得ない。だからボクはあの人を、……」
ぶつぶつと一定の声量で呟くシャルロットの声は、たとえるならば一定の文字列を打ち込むキーボードの打鍵音のようだ。ぽつぽつと、ぶつぶつと、感情の上下もなく、声量の上下もなく言葉が彼の中から漏れる。
ヴィダはそっと、シャルロットから距離を置いて彼の様子を見ていた。それ以上の行動が出来ないでいた。
淡々と言葉を落とすシャルロットのそれは、これまで彼の中で渦巻いていた様々な疑念を全て吐き出すことで、彼が彼自身の思考を整理するために行っていることだ。求めるべき問いがあり、問いに対する数式を用意して配置していくようなものだ。いずれ揃えば一斉に計算を開始し、やがて解が出る。そのとき、どんな結果を出すのかによって次の行動が変わる。それはきっと……ヴィダにとって望ましくない解になるのだろう。
バートはそんな二人から少し離れて様子を見ていた。異様なシャルロットの様子に固まっていた体を起こして、立ち上がる。そうしておもむろにシャルロットに近付くと、頭をごんっとグーで殴った。
「よっ」
「ふぎっ!」
解は出なかった。
解が出ることによる激情がどんなものかを見ずに済んだヴィダは、ほー……っと体から力を抜く。やはり、シャルロットが一番厄介だ。彼はなによりも現状維持を好む。新しい技術を好み、開発することも厭わないというのに環境が変わることは望まない。いつだって自分が機嫌よく過ごせる場所を一番に好む。
カメレオンやタコのように周囲の空気や環境に対して自らの色を変えてさっと馴染むクリスとは正反対だなとヴィダは気絶したシャルロットを背負いながら思った。
「シャルのこと、どうすんの?」
「家の掃除させるから、いったん連れて帰る」
「オレ持とっか?」
「バートじゃ背が足りないでしょ」
三人の中で一番身長が高いのがシャルロットだ。そういえば彼は、ちょっと前にも身長が伸びたと愚痴を言っていたことを思い出す。彼は変化を嫌う。それは自身の成長に対しても同じだ。背が伸びることも、声が低くなることも、容姿が変化していくことも、その全てが彼にとっては苦痛だと日頃から口にしていた。
(……だから、クリスのことが余計に嫌なのかな)
シャルロットを引き摺りながら、ヴィダは通りに出る。野次馬はいない。特に三人に注目するような人もおらず、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、ヴィーくんにバートくん! おはよう」
「マリーさん、おはようございます。すいません、朝からうるさくして。聞こえましたよね」
花屋の前を通ると、ちょうどマリーが外に花を並べているところであった。
ヴィダとバートが食卓を整えていたのが八時頃だったので、一時間以上は家の前や路地裏で喧嘩していたことになる。
「え? 大丈夫だよ~。猫ちゃんたちの喧嘩よりは静かだったし!」
大丈夫、とグッとポーズをしてくれるマリーだが、それでも結構な声量が届いていただろう。ヴィダはあとでなにか差し入れをしようと心に決める。
「ところで、ヴィーくんたちのお友達?」
「はい、シャルロットっていいます。起きたらあとできっちり謝罪させるんで」
「ほんとに大丈夫だよ~! なんともないもん。気にしないでね」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、マリーに礼を言うと玄関を開け、容赦なく中にシャルロットを放り込んだ。慌てたのはバートだ。
「ちょ、おま、大丈夫なの?」
「大丈夫。ほら」
「うう……ん」
衝撃で目が覚めたのか、シャルロットが身を起こす。そうして玄関を見渡すと、落ち着いた様子で立ち上がり、スカートの裾を払う。
「シャル、ちょっとは落ち着いた?」
「うーん……落ち着いたとは思う。でも……えっと、ヴィーくん? ボク、まだ色々と納得いってない」
「オレも納得いってない。シャルの所為で、朝ごはんの準備がパーになった」
「ふえ?」
きょとんと首を傾げるシャルロットに、ヴィダはずいとモップとばけつを差し出す。
「オレとバートとクリスは朝メシ食ってくるから、全部除染して。徹底的に。シャルのことだからどうせもう毒性が抜けてる頃だとは思うけど、ちゃんと掃除はして」
「そんなあ! ボクの朝ご飯はー!?」
「ちゃんと掃除出来てたら三段のパンケーキ焼いてあげる。それでどう?」
「うう~……ベーコンとはちみつ付きなら……」
「図々しいな……まあ、いいよ」
「やったあ!」
ボク頑張る! と意気込むシャルロットに、きっちり全室掃除するようにと言い残し、ヴィダはいまだ戸惑うバートを連れて外に出た。
「な、なあ。大丈夫なのかよ。毒ガスだったんだぜ?」
「大丈夫だよ。その証拠に、シャル自身けろっとしてたでしょ」
今回の騒動だけを見ればシャルロットは感情だけで動くにぎやかな人物に見えるが、本来の彼は大人しくて気が弱く、自分に自信が無いおどおどした雰囲気の、一見無害な人物だ。しかし大人しいからこそ確実に相手を仕留められるように知識と技術を磨き、気が弱いからこそ相手を綿密に観察し動向を探り、自信がないからこそ確実性と再現性を何より重んじ、徹底した事前準備とテストプレイを行う。過去に実績があり、確かなデータと根拠のあるものを好むのだ。
「昼間の市街地で、長時間残留するような薬物なんてシャルは使わない。あれの中身はわからないけど、ガスだとして上階や天井に触れるほど高くは上らないでしょ。最初の一呼吸が避けられればそれで十分。あいつが使うのはそういうやつだよ」
わかっているのか興味がないのか、バートはふーんと適当に聞き流していた。
そう、シャルロットは確実性を好み、隠蔽を尊ぶ。バートどころか、ヴィダよりも組織への忠誠心が厚いのは間違いなくシャルロットなのだ。
『あの人は危険だ。こうして、あの人が存在することを許容する空気を作り出す。あの人が、存在することを認めようとするように、世界のほうが許容する』
脳内に、先ほどのシャルロットの言葉が反芻する。
シャルロットは表に立つことを好まない。本来の仕事は諜報であり、ヴィダ達前線メンバーのサポートを行うことがメインの業務だ。彼自身が率先して誰かを手にかけることは滅多にない。誰かの痕跡を辿るのが得意な彼は、同じぐらいに痕跡を残さない。前線メンバーの中には、シャルロットからサポートを受けていることすら失念し、今日はなんだか随分と順調に仕事を行えた! と自信をみなぎらせて自慢するものが出ることがあるくらいだ。
有頂天になったメンバーがそう吹聴したとて、シャルロットは気にしない。彼にとっては目立たず、裏方に徹することが優先されるからだ。
そのシャルロットが、ああも取り乱してなりふり構わず襲撃してきた。バートの襲撃があって、次はシャルロットがやってくるだろうと想定はしていたし、寂しがりやの彼はバートと自分が仲良くしていれば耐えきれずにやってくるだろうと考えていた。クリスに殺意を抱くことだって想定済みだった。
だが、もし。
もし、そんな状況を揃えたからといって、シャルロットがあれほど心を乱されることが異常だったとしたら?
『ボスもなんだってあの人を殺さないように言ったんだ』
シャルロットの言葉が、胸に霞を掛ける。もしや、ヴィダの助けた人物はこの世に生きていてはならない類いの存在だったのではないだろうか。これまで、自分が手にかけてきたどうしようもない存在たちのように。
そんな、暗澹たる疑念を抱きながら彼を置き去りにしてきた屋根の上にあがると、驚きの光景が広がっていた。
すやあ。
青空にのんびりと流れる雲の下、丸まるように眠るクリスがそこにいた。その彼の近くには野良猫と小鳥が二羽。寄り添うようにして佇んでいる。
「ねえ」
ヴィダが上ってきたことに驚いたのか、鳥も猫も瞬く間に離れていってしまった。ちょっと残念。
「あ、ごめんヴィーくん。日向ぼっこしてたら眠くなっちゃって」
「いいけどさ……危機感ないね」
「あはは。それより、仲直りできた?」
身を起こしたクリスの質問に、ヴィダは肩を竦める。
「どうだか。それより、あんたにずいぶん深い恨みがあるみたいだよ」
「あー……ちょっと聞こえちゃったんだけど、ボクがヴィーくん達と仲良くなったのがショックだったみたいだね?」
「ショックっていうか……まあ、ショックか」
あの喧嘩を聞いた要約がそれなのかと思いつつも頷く。端的にいえば、確かにそうだ。仲良しの友人に新しい友人ができて、これまでの仲良しグループが変わってしまうのが嫌なのだ……と、短くまとめるとそれだけの話であり、シャルロットにとってはそれ故に何よりも堪えがたいという話である。
「なあなあ、それより朝メシ食いにいこーぜー。オレ腹減ったぁ」
「そういえば、シャルロットくんはどうしたの?」
「あいつは掃除させてるよ。あいつの所為で朝メシ食べれなかったんだし」
「うーん、そっかぁ」
クリスの視線が家のほうへ向いたのを見て、ヴィダは彼の頭を小突く。
「あんたのこと嫌いなやつを気にしてどうすんの。それに、掃除終わったらご飯作る約束してるから」
「そうなんだ! ならお土産買っていこうか?」
「いいってば。ほらさっさと降りるよ」
ヴィダとバートでサポートしながらクリスを下ろし、三人で朝食を摂る為にあれがいいこれがいいと店を物色して歩く。ハンバーガーを食べたいバートと、さっぱりしたサンドイッチ程度で収めたいヴィダとでしばし争ったあとに、どちらも提供しているファストフード店に入った。
バートは分厚いお肉の入ったハンバーガー、ヴィダは白身魚のフライが入ったサンドイッチ。クリスは少し悩んだあとにお肉と卵の入ったサラダボウルを頼んだ。
「げー。朝からサラダだけって、お前なー」
「美味しいよ? ほら、あーん」
「あーん。お、ほんとだ。うまーい!」
「でしょー?」
ふふ、と嬉しそうな表情のクリスをじっと見る。シャルロットへ反論したいわけではないが、彼ののほほんとした雰囲気と誰に対しても人当たりがいい様では、彼を好ましく思うというのは普通の感性ではないだろうか。
「ん? どうかした?」
「ううん、なんでもない。バートを甘やかしすぎないで。カロリーオーバーになると本人が大変だから」
「あ、うん。ごめんね」
何より顔がいい。スタイルがいい。思慮深く、こちらの意を汲んでくれるし、何より従順だ。かといって決して愚鈍であったり、意思決定権を他者に押しつけているわけでもない。自分で決めないとならないことは場を見て即決断しているし(だからこそ彼の行動が読み切れず困るところもある)、これまで過ごしていてクリスが自責することはあれど他責したところをヴィダは見たことがない。
一言で表すならば、この上なく都合のいい存在。
無防備に笑う彼は、ヴィダが殺そうと思えば殺せることに変わりはないし、浮気調査の結果に激高した顧客にも容易に殴られていた。うん。やはり、どの角度から見ても危険には見えない。
「ヴィーくんもサラダ食べる?」
「ん。食べる」
「あー! オレも、オレも食べる!」
「バートが? ふだん野菜そんな食べないくせに」
「もらえるもんはオレもほしいの!」
「あはは、じゃあもう一個、頼んでこようか」
そう言って席を立つクリスを見送る。
確かに、誰にとっても都合がよく映るのならばクリスが異様に人に好かれることも理解できるし、その様子を見ておそろしいものに映る人がいることも理解できる。
時折、真意が計りかねる行動を起こすことや謎めいた思考をしていることに薄ら寒い思いをするときもあるが……そこを加味しても、シャルロットの言いぐさには疑問があった。
きっと考えすぎなのだ。
シャルロットが今までの生活を脅かされることに危機を感じ、躍起になってクリスをおそろしいと感じているだけに違いない。
「はい、分厚いベーコンとしゃきしゃきのキュウリをトッピングしたスペシャルサラダだよ~」
「お、わかってんじゃん家主ー」
「その家主って呼び方、もうちょっと他にない?」
「ヴィダはキュウリと葉っぱあればいいだろー? お。チーズもあるじゃん。シャルはなー、チーズ好きなんだぜ」
「そうなんだ? シャルくんて、他にどんな食べ物が好きなの?」
バートが答える前に、ヴィダが二人の会話に割り込む。ついでにサラダボウルから好みの野菜を皿にわける。
「シャルはケーキやスコーンとか甘いものと、紅茶が好きだよ」
「そうなんだ、かわいいね」
「かわいい……? カロリー考えたらぞっとする」
げんなりとするヴィダに、バートが呆れた様子で話に割り込む。
「お前はなぁ……食事なんて必須栄養素取れればいいーって、栄養バーばっか食ってたもんな。食事は見た目も大事なんだぜー?」
「え。そうなの?」
「そうだよ。食事に時間使うのもばからしい、鍛錬してたほうがいいって、も、ぜーんぜんメシ誘ってもこねーの。シャルは食べるの大好きなんだけどなー」
バートの言葉を聞いたヴィダは、食堂でサラダ、メインディッシュ、パンにバター、食後のデザートとフルコースで並べ、にこにこと幸せそうに頬張るシャルロットの姿を思い出す。
「……あんなインテリの癖に、食事の効率化を図らないのはおかしいと思ってるけど」
「だーもー。これだよこれ。家主ぃ、お前ひょっとして最初の頃、そんなんばっか食わされたんじゃね?」
「あーいや、ちゃんと作ってくれてたよ? おいしかったし」
クリスが困ったような視線を向けてきたので、これ以上の会話を打ち切ろうとヴィダは「とにかく」と切り出す。
「シャルは甘い物が好きだから、なんか買っていきたいなら焼き菓子でも買ってけばいいんじゃない」
「そうだね、お腹空かせちゃってるだろうし」
ぱ、と花の咲いたように笑うクリスに、バートが甘いな~といいながらもどんなお菓子がいいかと二人で話し始める。バートはすっかりクリスに懐いたように見える。その様をみても、やはりシャルロットは考えすぎなのだと結論付けた。
きっと、自分やバートがクリスに懐いたことが気に食わなくて、不安で、気にしすぎているだけ。余計なことまで勘繰っている。ただそれだけ。
だからきっと、彼の大好きな、美味しい紅茶とあまいお菓子があれば。そのうち機嫌を直すだろう。
*
シャルロットにとって、『組織』は王国であり、世界であり、全てであった。
心地よい水の満ちた、快適な水槽を外からシャルロットは眺めている。行き交う綺麗なお魚たち。シャルロットはぷくぷくと笑って、水槽を管理する。適正な食事量、適正な運動。尾が欠ければ補修し、水を入れ替え見栄えを整えて。過ごしやすいように水草を植えて岩を並べる。
水槽の中で育つ魚も、温室で育てる花々も同じ。シャルロットは自らもその中で過ごしているように振る舞いながら外から彼らを見て、採点して、管理する。ポラロイドに映った魚がじっと、彼らと同じ顔をして過ごす。残響と共に影が揺らめくようにシャルロットは過ごす。
彼は自らが異物であることを認識している。
彼は自らが枠外であることを認識している。
彼は自らが異物であり、枠外であることを理解したうえ
で彼らと同じように水槽に沈み、温室で揺れる。
痛みを訴える子の怪我を直し、定期テストにて落第を受けた子に同じ手でバツを付け、あぶく一つ漏らさずに息を止める薬を作ってはどこにも属さない新しい生物を構築する。糸でほつれた尾を縫い止めて、同じ糸で首をねじ切り、まろびでた糸を用いて命を紡ぐ。
組織の中で過ごすならば、誰かしらがシャルロットの手掛けた何がしかに触れて過ごす。
ぱくぱくと口を開け、エサを咥えて大きくなる魚をビニル袋に詰めて。艶やかに腰を振る花を摘みとって。
本当は、シャルロットはそれらをいつまでも眺めて過ごしていたかった。そして叶うなら、外側ではなくて一緒に彼らと過ごしていたかった。けれど彼らは、シャルロットを置いていってしまう。友達になったと思えば廃棄され、ポイに掬われ、いなくなってしまう。
ポラロイドに映る魚はすくわれない。なぜなら彼は、水槽の中にはいないのだ。
水槽の外側から内で同じように揺蕩うような顔をして過ごし、日陰でほころぶ花と同じ姿で項垂れる花を摘み取る。綺麗に育てて、送り出す。他が傷む前に悪い実は摘み取って。
そんなシャルロットの生活の中で出会ったヴィダとバートは、彼にとって心からの救いであり、初めての願いが生まれた。この子達ならずっと一緒にいてくれるかもしれない。そうであってほしいと、心から願ったのだ。
いつかは、ヴィダやバートだって卒業する可能性はあった。けれどそれはこんな直近のことではないと信じていたし、彼らの買い取り金額を考えれば将来的にも実現しないだろうと思っていたのだ。
自分と同じように組織を拠り所としていた彼らは、きっと卒業後は組織内で働くのだと、そう思っていたのだ。
安心していた。慢心していた。
「ボクの落ち度は認めますけど……だからって、ポッと出のどこの馬の骨ともわからないやつに持っていかれるだなんて、誰が予想できるっていうんですか」
とげとげしい言葉をそれとわかって容赦なく投げかける。投げかけられた相手、クリスは眉をハの字に寄せた。わかりやすく困ったという態度は、シャルロットのカンに触れる。
「う。持っていったつもりは全くないんだけどね……」
「ボクからしたらその感覚ですよ。だいたい、なんであなたとお茶しなくちゃいけないんですか。ボクはヴィーくんやバートとお茶したいです」
「ごめんね。でも僕がシャルロットくんとお話してみたくってさ」
「話す事なんてないですよ。ボクからしたら敵なんですから」
ぷいっとそっぽを向くと、シャルロットの視界には憎き敵の姿ではなく、愛らしく飾り付けられたカフェの店内が映る。ドライフラワーが幾つも天井から吊され、いたるところにぬいぐるみが置いてある店内は、シャルロットが密かに気になっていた店だ。ヴィダがこの国に潜んでいると判明してから、仕事の合間にどうにかいけないかと目を付けていた店。
「……お店選びのセンスはいいですね。ボクがこういうお店が好きだって、二人から聞いたんですか?」
「シャルロットくんの好みを聞いて、最近話題になっているお店の中から選んだんだ。気にいってくれたなら嬉しいよ」
「むう。キザな人。危険です」
「そ、そうかな? 僕ってそんなにあやしい人に見える?」
「見えます」
「うーん、にべもない」
「あなた相手にかわいくあろうと思いません」
「? 十分かわいいと思うよ」
「……はー……。いいです、とりあえずこれはいったんいいです。それで、話しってなんですか」
テーブルに置かれたティーポットからカップへと紅茶を注ぐ。ふわりとパウダリーなニオイスミレの香りが立ち上り、ささくれ立っていたシャルロットの心を柔らかく包みこむ。
「僕がいまシャルロットくんに殺されたとして、ヴィーくんはおとがめなしになる?」
「っ……ごほっ」
唐突に直球な質問がきて、思わずはしたない様を呈するところをなんとか押さえ、尋ね返す。
「はい?」
「シャルロットくんが二人を心配してくれているのは理解しているんだ。そのうえで、どうしたら一番収まりがいいのか考えていてね」
続く言葉に感情の起伏は見てとれず、淡々としたもの。あるべくしてあるものを並べただけのようなそれは、シャルロットの心を動揺させた。
「なんですかそれ。ボクに殺されたいってことなんですか?」
「違うよ。僕はいまの生活が楽しい。恵まれたものだと思っている。けど、いまの状態は歪だ。どこかで調整をつけないといけないものだとも思っている」
スコーンを二つに割り、クロテッドクリームといちごジャムを丁寧にバターナイフで塗りながらクリスは話しを続ける。
「もうシャルロットくんにもバートくんにも見つかっているのだしね。それで、本来なら生きていないはずの僕がこうして過ごしていることも、それを見過ごしているヴィーくん、バートくんはなにか酷い目に遭ってしまうんじゃないかってことを気にしているんだ」
シャルロットは、クリスの言葉にしばし口をつぐんだ。その間に彼はスコーンを口に入れ、飲み込んでからふわりと微笑む。
「スコーンもおいしい。このお店にしてよかった」
「……」
シャルロットも、スコーンを手にとると二つに割ってたっぷりとクロテッドクリームを付ける。分厚く乗せたクリームが口内に満ちて、それが溶けきる前に言葉をまとめようと試みた。
「……おとがめなしは、無理でしょう」
苦いものを隠しきれず、シャルロットは言葉を絞り出す。事実、シャルロットの知る組織というのは厳格な戒律に従う集団だ。
「バートはともかく、えっと、ヴィーくんのほうは任務の途中放棄、対象の連れ出し、逃走。どれも、あなたに惑わされたということにしても……よくて降格、悪くて……」
「そっか」
クリスはその先の言葉を遮り、頷く。
シャルロットはティーカップを傾けながらも、先ほど胃に落ちたスコーンがずっしりと重さを増すのを感じていた。
「ごめんねシャルロットくん。その話しが正しいのなら、僕は君に殺されるわけにはいかないや」
「ど、どういうことですか」
「僕はヴィーくんに殺されないとならない。それが君たちに降りたお仕事なのだから。今のままじゃ、ヴィーくんの今後が心配だ」
そこで一度言葉を区切ると、クリスは全身から力を抜くように息を吐き出し、ぽつりと言う。
「僕はもう死んでいるようなものだから。僕は僕自身の生死はどうだっていいんだ。ただ、ヴィーくんもバートくんも、僕と知り合った人たちに迷惑をかけるのは好きじゃない。できれば避けたい。悲しませたくない。責任を取れるようなものではないから、尚更」
「……………………」
シャルロットは困惑を浮かべたまま、クリスの言葉を、態度を確かめる。嘘をついている様子はない。なにか気取っているような様子もない。
事実、彼の言っていることは正しいとシャルロットは思えた。
このまま組織に、ヴィダがしでかした行いをそのまま報告すれば彼がどうなるかをシャルロットが一番、明確に想像がつく。そしてそれは、シャルロットが最も避けたい結末の一つだ。
だからシャルロットの手でクリスを始末し、惑わされたという体で組織に帰ろうとしていたのだが……他でもない、シャルロットがその作戦には無理があることを理解していた。
ヴィダは優秀だ。彼が貴族のぼんぼん息子に連れ去られるだなんてことは、万が一にもあり得ない。
クリスという存在の危うさを訴え、ヴィダとバートは騙されたのだと主張したところで、はたしてどれだけの人物が理解を示してくれるのだろう。
「ヴィーくんが僕を殺して、なぜこうしたのか理由を付けられるなら手はあるよね」
「それは、そうです。当初は僕が殺して、ヴィーくんを説得するつもりでしたから」
「説得かぁ……」
無理だろう、という言葉は続かなかったが、クリスの態度からしてありありと伝わる。ヴィダは自らの居場所もこれまでの地位も全てを捨て、組織と敵対してまでクリスを選んだ。シャルロットからしても、どんな薬物や甘言を操ればヴィダの心変わりを促せるのか想像もつかない。
「僕は、ヴィーくんの意思を尊重したいんだ」
暗澹たる思いを抱えながら、シャルロットはクリスを見る。意思を尊重する。そんなことになんの意味があるのか。尊重した先に恩赦があるだなんて、都合がいい未来があるとは思えない。
「シャルロットくんの提案で、ヴィーくんもバートくんも元気に過ごせるならそれでいいんだ。でも、ごめん。聞いている限りだと無理だと僕には思えた。だからその提案には乗れない。僕がシャルロットくんに殺されたとして、きっといい結果にはならない」
「やってみたら、違うかもですよ」
「そんな不確実なことをして、取り返しがつくような甘い場所じゃないでしょう。君たちの『組織』は」
まるで知った風な物言いをする、とクリスを睨み付ける。しかし、彼のいうことは間違ってはいないのだ。
「じゃあ、どうするんです? あなたが提案するプランがいいものなら、僕だって協力します」
「ほんと?」
「え、ええ。ボクは二人が戻ってくるなら、なんだっていいんです。ボクにとっては二人が何より大事なんですから……喧嘩だってしたくないですし、嫌われたくないです。嫌われたくないですけど……」
川底の汚泥がまとわりつくような思いで、シャルロットは言葉を濁す。二人が何より大切だ。その気持ちに嘘も偽りもない。二人を取り戻す為ならばなんだってする。その気持ちも正しい。だが、それ以上にシャルロットは組織という居場所を大切にしていた。たとえ二人に嫌われたとしても、シャルロットは組織の仕事を遂行する。
「あと二ヶ月、時間をくれないかな。きっとそれまでには……ふんぎりがつくとおもうから」
「それで、なにが変わるんですか」
ただ時間を与えたところで物事は変わらない。この数ヶ月、ずっと頭を悩ませていたシャルロットですら良策が浮かばないというのに。
「二ヶ月の間にボクを籠絡すれば助かるとでも思ってますか? ボクが手を下さなかったとしても、もっと怖い人が組織にはいっぱいるんですよ」
「うん、それでもあと二ヶ月待ってくれないかな」
「というか……なんで二ヶ月なんですか?」
当然の疑問に、クリスは照れたような笑みを浮かべ、こう返した。
「その頃にはなんでも屋としても実績が作れているとおもって」
「はあ……。よくわかりませんが……」
なんでも屋というのがクリスとヴィダがこの町で始めた商売だというのは把握していた。徐々に住人からも依頼が入るようになり、認知度も上がりはじめている。確かにあと二ヶ月もあれば、それなりの件数をこなすことは出来るかもしれないが、だとしてなんだというのか。
「まあ、いいです。こんな話、せっかくのお茶がまずくなりそうなので」
「じゃあ、待っててくれる?」
クリスは怒られたあとの子犬のように、シャルロットへお伺いの視線を向ける。毒気が抜かれるその表情は意図的なものなのか恣意的なものなのか。
「いいですよ。ボクがここで見逃しても、もっと怖い誰かが、あなたに始末をつけるでしょうから」
「ありがとう、シャルロットくん」
「シャルでいいです。あと二ヶ月持つか持たないかの命なんです、ボクも優しくしてあげます」
そう言いながら傾けた紅茶はやはり好みの味で。シャルロットはぼんやりと少し前のことを思い起こす。
それは、組織の長に現状を報告したときのことだ。ラッセル家の跡取りであるとされた死体に不審な点があること。可能性の一つとして、生き延びた彼に構成員が一人拉致された可能性があるということ。
それを報告していく中で、シャルロットは一つ疑問が浮かんだのだ。
『……あの、一つお伺いしたいんですが』
退屈そうな調子で報告を耳にしていたボスが、こちらに視線を向ける。
シャルロットはその視線を了承の合図と受け取り、質問を投げかけた。
『なんで今だったんですか?』
ラッセル家は古くから疎まれ、厭われ、崇拝され、慕われた名門貴族だ。あらゆる業界に崇拝者を抱え、敵を作り、それでも脈々と続いた由緒ある団体。
組織が『組織』と称されるように、ラッセルは『ラッセル家』という団体の一つとして扱われていた。どこまでが直属の血統なのかがわからない。当主と呼ばれる男の顔は広く伝わるというのに、彼と直近で出会ったという人物が見当たらない。しかし、ラッセル当主の息がかかった人物たちが常に表舞台に立ち、めざましい功績を残してはラッセルの為に貢献していく。
ありの巣のように各業界の裏に巣くう彼らを潰してほしいという願いは、シャルロットが生まれるより遙か昔から舞い込んでいたという。それを、延々と拒否していたことをシャルロットは知っていたし、見てもいた。
それが、急にラッセル家を滅亡させる依頼を引き受けたかとおもえば組織はじまって以来の異例の事態が発生した。シャルロットをもってしても動揺してしまうほどの一大事件。たまたまタイミングよく発生しただなんて、楽観的におもうことは出来なかった。
『あれが育ちきってしまったら、もうどうにも出来なくなるからね』
『あれ……?』
首を傾げるシャルロットに構わず、組織を束ねる長は続ける。
『依頼主側もいいタイミングで金を工面してきたものだ。もしあれの仕上がりがもう少し早かったなら、すでにどうにもならなかったろうさ。世の中も今は比較的落ち着いていたからね』
『それは……これから深刻な不況が訪れるからって意味で合っていますか?』
シャルロットの言葉に、相手は頷く。ラッセル家を滅ぼした場合、世界規模であらゆる業界に深刻な損害が発生する。多くの人々の生活が立ち行かなくなり、名の知れた企業であっても倒産を免れないような状況が引き起こされる。多くの人が路頭に迷うだろう。幾つかの国が不況に喘ぎ、争いが増える。
そのリスクを背負ってでもラッセル家を潰すように多くの資産家が願い、組織に依頼した。比較的世界が安定しており、弾性のある現状ならば引き受けることができると判断されたことも理解はできた。あと数年昔であれば、きっと世の中のほうが持たなかっただろう。
『また、新しい子が入ってくるんでしょうね。各地に』
ついトゲのある言葉を唇に乗せるが、ボスである男は気にした様子もない。シャルロットも気に留めず、気になった点を重ねて尋ねる。
『あれって、なんですか?』
『跡取りだよ。行方不明になっている』
『ああ……。それが? ボスが気にするほど大したことはしていないようですが』
彼の資料はすでに頭に入っているが、めざましい経歴は残っていない。写真で見た限り顔立ちはよく、大学での評判もよかった。だが、他の有力貴族や資産家と交流した情報やラッセル家にまつわる業績を立てた形跡はない。言葉を選ばずにいうならば、ラッセル家であるというラベルがなければ取るに足らない人物だろうとシャルロットは判断していた。
『あれを楽しいと思って見ていられるのは、何色にも染まらずに無邪気に他者の色を反射しているときだけ。エメラルドに染まったインペリアルエッグを抱いて眠るわけにもいかないだろう? 殻を破ったとて中には何もない。金の塊もなければ夢見の霊薬もない。ただの死んだ卵だよ。それでも妖精の酒というのは人が焦がれ溺れ狂うものだからね。緑の水を満たす前に、取り上げないといけないんだよ』
『…………うーん。よくわかりません……』
要領を得ない会話は疲れる、とシャルロットは話を切り上げる。ただ煙に巻かれただけなのか、意図があるのか。
『だから、彼を殺そうとしてはだめだよ。中から何があふれ出してくるかわからない』
『はあい……気をつけますね』
中から何が出るって、そりゃあ血液だろう。宇宙人でもあるまいに。いや、もしかして本当にそういうものなのだろうかと考えたあと、かぶりを振る。やめよう。考えたって仕方のないことだ、と、シャルロットは思考をやめることを選んだのだ。
そして今に意識を引き戻し、のほほんと残りのスコーンを食べ終えたクリスを見た。
「あなたも、こわい人ですね」
「えっ、なんで?」
「本気でなんでって思っているようなところです」
飾った態度も言葉もなく、冷えた応対を続けても気にした様子をみせずにいるクリスは、いっそ不気味だとシャルロットには思えた。それでも今、このひとときを過ごしたことでほんのすこし、仕事を怠けてみてもいいかと思う。紅茶もおいしいし。バートもヴィダも、シャルロットの趣味には余り付き合ってくれないし。
「本当に、二ヶ月だけですよ……?」
「うん! ありがとう、シャルくん」
嬉しそうに笑うクリスに、流される。浮かれてしまう。困ってしまう。
「一つ、脈絡もないこと聞いてもいいですか」
「うん?」
「空の色って、何色だと思います?」
シャルロットの質問に、クリスは目を丸くする。
「ほ、本当に脈絡ないね……」
「海の色は、何色だと思います?」
「うーん、そうだなぁ」
視線を彷徨わせたのち、クリスはシャルロットが想定していた通りの答えを返す。
こうして三度鳴くフクロウは小川を見詰めたのち、その場に佇むことを決めた。そこに映る像を眺めるために。川底のサワガニへ語って聞かせるための言葉を探すために。 そしてフクロウは小川で佇む。あと二ヶ月。果たして川は、何色に染まるのか。